2023年2月19日日曜日

〈藤原定家の時代276〉文治6/建久元(1190)年1月3日~1月29日 後鳥羽天皇(11)元服 定家(29)従四位下 泰衡の旧臣・大河兼任の乱(千葉常胤・比企能員に追討命令) 兼実(42)娘任子(16)、後鳥羽天皇(11)に入内(4月26日、中宮)        

 


〈藤原定家の時代275〉文治5(1189)年11月3日~12月25日 大江広元、三回目の上洛(功ある者への恩賞実現) 藤原定家(28)左近衛少将 兼実の娘任子、三位叙任 兼実に太政大臣 永福寺建立開始 より続く

文治6/建久元(1190)年

・奥州合戦終結によって日本の戦乱が終息した建久元年は、鎌倉幕府という武家権力の存在を前提とした日本の国家秩序確立過程が最終段階を迎える年となる。

・この年、北条義時(28)異母弟政範(母は牧方)生まれる。

1月3日

・朝、御行始。頼朝、比企能員邸に入御。新田義兼等、御共をする(「吾妻鏡」同日条)。

1月3日

・後鳥羽天皇(11)、元服。「加冠は余、理髪は左大臣實定」(「玉葉」同日条)。

1月5日

・藤原定家(29)、従四位下に叙任(左近衛権少将は元の如し)。定家が九条兼実の子の良経・任子に仕えていることから可能となる。

1月6日

・『女御入内御屏風和歌』撰定終る(「玉葉」)。定家は三首選撰定される。

1月6日

・泰衡の旧臣・大河兼任の乱
「奥州の故泰衡郎従大河の次郎兼任以下、去年窮冬以来叛逆を企て、或いは伊豫の守義経と号し出羽の国海辺庄に出て、或いは左馬の頭義仲嫡男朝日の冠者と称し同国山北郡に起ち、各々逆党を結ぶ。遂に兼任嫡子鶴太郎・次男畿内の次郎並びに七千余騎の凶徒を相具し、鎌倉方に向かい首途せしむ。その路河北・秋田城等を歴て、大関山を越え、多賀の国府に出んと擬す。而るに秋田大方に於いて、志加の渡を打ち融るの間、氷俄に消えて五千余人忽ち以て溺死しをはんぬ。天の譴を蒙るか。爰に兼任使者を由利の中八維平の許に送りて云く、・・・。仍って維平小鹿嶋大社山毛々佐田の辺に馳せ向かい、防戦両時に及ぶ。維平討ち取られをはんぬ。兼任また千福山本の方に向かい、津軽に到り、重ねて合戦し、宇佐美の平次以下の御家人及び雑色澤安等を殺戮すと。これに依って在国の御家人等面々飛脚を進し、事の由を言上すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

1月7日

「去年の奥州の囚人二籐次忠季は、大河の次郎兼任の弟なり。頗る物儀に背かざるの間、すでに御家人と為す。仍って仰せ付けらるる事有り、奥州に下向す。途中に於いて兼任叛逆の事を聞き、今日帰参する所なり。これ兄弟たりと雖も、全く同意せざるの由貞心を顕わさんが為と。殊に御感有り。早く奥州に馳せ向かい、兼任を追討すべきの旨仰せ含めらると。忠季兄新田の三郎入道、同じく兼任に背き参上すと。彼等参上の今、始めてこれを聞こし食し驚くに依って、軍勢を発遣せらるべきの由その沙汰に及じ参上すべきの趣なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

1月8日

・頼朝、足利義兼・千葉常胤・比企能員に陸奥の大河兼任追討命令。この日、千葉常胤、出陣。13日、常胤の長男・胤正、出陣。
比企能員、東山道大将軍となり、上野・信濃の後家人を率いる。
「奥州叛逆の事に依って軍兵を分ち遣わさる。海道の大将軍は千葉の介常胤、山道は比企の籐四郎能員なり。・・・この外近国の御家人結城の七郎朝光以下、奥州に所領在るの輩に於いては、一族等に同道すべきの旨を存ぜず、面々急ぎ下向すべきの由仰せ遣わさると。」(「吾妻鏡」同日条)。
1月11日

・太政大臣九条兼実(42)娘任子(16)、後鳥羽天皇(11)に入内。
16日、女御となる。
4月26日、中宮となる。父忠通が養女を迎えて二条帝の后(育子)として以来、4代ぶりに摂関家の娘の正妃を実現させる。     
宜秋門院(1173~1238)
後鳥羽天皇の中宮。名は任子。承安3年(1173)9月生れ、父関白太政大臣藤原兼実。母従三位藤原季行の女兼子。文治5年(1189)11月、従三位に叙され、翌建久元年(1190)正月入内して女御。4月立后宣下、中宮となる。同6年8月皇女(春華門院昇子)を生む。同7年11月、父兼実の関白罷免にともない内裏を退出。正冶2年(1200)6月、院号宣下、宜秋門院と号す。建仁元年(1201)10月法然のもとで出家、建暦2年(1212)正月院号・年官年爵を辞退。元久元年(1204)、父兼実から最勝金剛院と付属する荘園十数ヶ所と女院庁分として荘園三十数ヶ所を譲られ、のちにこれらの荘園を甥道家の女(田中殿)を猶子として譲与。暦仁元年(1238)12月没(65)。

1月13日
・足利義兼、奥州追討使として鎌倉を発向(「吾妻鏡」) 。

1月24日

・この日の県召除目(あがためしのじもく、国司の任命)で、遠江守・安田義定が下総守に遷任させられる。これは、頼朝上洛の下準備だった可能性が高い。
議定は寿永2年8月、義仲に呼応して入洛した甲斐源氏の一族、この時遠江守に補任されたが、頼朝の推挙ではなかった。また国司の任期は1期4年であるが、議定は重任していた。
この時の除目では、朝廷から賦課された勅事院事や造稲荷社など、さまざまな公役を納めなかったという理由で下総守に遷任させられた。遠江国は、東海道の要路にあたり、上洛する頼朝にとって危険を避ける意味で遷任させた可能性がある。頼朝が鎌倉に帰った翌年、建久2年3月6日、義定は遠江守に還任している。
「これ外には替国を給うと雖も、内には叡慮に背く事等有るが故なりと。遠州は重任多年を送るの上、殊に執し思うの処、今この事出来す。愁歎尤も休み難きの由二品に申すの間、執奏せしむべきかの趣、御書を義定の状に副えられ、飛脚を差し進上せしめ給う。・・・ 一、勅院事対捍の由の事・・・一、造稲荷社造畢覆勘の事・・・」(「吾妻鏡」2月10日条)。

「下総の守義定申す條々の事、勅答の趣、権中納言(経房)執り進せらるる所の院宣、右大弁宰相(定長)の奉書なり。義定これを拝見せしめ、愁緒いよいよ腸を断つと。その状に云く、 ・・・遠州在任の間、公事所済の目録申し上げ候いをはんぬ。諸国の宰吏、この程の公役を勤めざらんや。偏に押領すべきの由存知ずるか。在京の国司に於いては、式数済物の上、恒例臨時の課役を相営み、その外また勤節を抽んずる所なり。義定に於いては、殊なる忠無きの上、諸国逐日亡弊す。尋常の国を知行するの仁に非ず。しかのみならず六條殿造営の時、諸国皆領状す。一国申す旨有り。輙く承諾せず。二品の譴責に依ってなまじいに勤仕す。私に物詣での間、京洛を過ぎると雖も事の由を言上せず。諸国吏上洛の時密々下向す。未だ聞こし食し習わざる事か。此の如き事等、仰せ遣わすに能わずと雖も、大概仰せらるる所なり。七箇年知行の後、他国に遷任せらる。豈御宥恕に非ずや。子細は猶廣元下向の時仰せらるべきの由、且つは二位卿の許に仰せ遣わすべきの由、内々御気色候なり。仍って上啓件の如し。」(「吾妻鏡」2月25日条)。
1月29日

「御使雑色を奥州に遣わさる。これ凶賊所領内を融ると雖も、御家人等一身の勲功を立てんが為、無勢を以て所々に於いて左右無く合戦を企て、その利を失うべからず。仮令客人を相待ち、駄餉を所領に儲けるの儀に似るべからず。発遣せしむの士、在国せしむの輩、各々偏執無く同心せしめ、一所に相逢い、僉議を凝らし合戦を遂ぐべきの旨、御書を以て、今日御家人等の中に触れ仰せらるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく

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