2023年2月8日水曜日

〈藤原定家の時代265〉文治5(1189)年5月1日~5月22日 伊豆国に配流中の忠快に召喚宣下 「伊豆の国の流人前の律師忠快を召し返すべきの由、宣下状到着す」(「吾妻鏡」) 〈忠快のその後〉 義経死すの報、京都に届く 「天下の悦び何事かこれに如かずや。実に仏神の助けなり。抑もまた頼朝卿の運なり。言語の及ぶ所に非ざるなり。」(「玉葉」)          

 


〈藤原定家の時代264〉文治5(1189)年閏4月1日~閏4月30日 忠快・能円らの召喚官符下る 衣川の合戦(義経の最期)「今日陸奥の国に於いて、泰衡源與州を襲う。これ且つは勅定に任せ、且つは二品の仰せに依ってなり。、、、與州持仏堂に入り、先ず妻(二十二歳)子(女子四歳)を害し、次いで自殺すと。」(「吾妻鏡」) より続く

文治5(1189)年

5月

・前権少僧都全真(二位尼平時子の妹の子)、配流を赦され召返しの官符下る(「玉葉」5月6日条、「吾妻鏡」6月2日条)。7月頃には入洛。秋頃、従姉妹の建礼門院を大原に訪ねる。「玉葉和歌集」所集の歌あり。

5月1日

・新田高平、源義経の首を酒に浸し黒の漆塗りの櫃に入れて従臣に担がせて鎌倉に向かう。

5月4日

「この日、太上法皇四天王寺に於いて千部法華千口持経者等を供養す。去る二月二十二日より当寺に御参籠。手ずから千部経を転読し、毎日三時の護摩を修せしめ給う。今日結願に相当たり、殊にこの大善を修せらるる所なり。」(「玉葉」同日条)。

5月17日

伊豆の国の流人前の律師忠快を召し返すべきの由、宣下状到着す。去る月十五日源中納言通親・左大弁宰相親實・少納言重継朝臣・左少弁定経等参陣す。奉行職事宮内大輔家實と。同時に召し返さるる流人、前の内蔵の頭信基朝臣(備後の国)・前の中将時實朝臣(但し城外に及ばずと)・前の兵部少輔尹明入道(出雲の国)・藤原資定(淡路の国)・前の僧都全眞(安藝の国)・前の法眼能圓(法勝寺前の上坐、備中の国)・前の法眼行会(常陸の国)・熊野前の別当等なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

〈忠快のその後〉

文治元年(1185)7月、伊豆国配流を言い渡された前権律師法橋上人位の忠快は伊豆国田方郡小河郷の伊豆国府に到着。忠快は、地元の御家人・藤原宗茂の監視下に国府の近傍で4年近くを過ごすが、その間、頼朝を初め鎌倉の有力者たちの帰依を得るようになった。『古事談』には、忠快が北條時政の孫娘の疾を祈禱して快癒に導いたことが伝えられている。こうした事柄が積もって鎌倉方の帰依が増大した。

召喚の官符が下され、忠快はこの月には帰洛したと想定される。鎌倉の尊崇を得ていた忠快は、父・敦盛が洛東の小川の高畠に所有していた敷地を返却されており、そこに住房と持仏堂を営んだ(現在の東山通りの「知恩院前」の西北辺り)。

文治5年秋から冬にかけて、忠快は主に大原に赴いて契中を師とし、研学に傾倒していたという。

建久6年(1195)6月24日、入洛していた頼朝・頼家の鎌倉下向に同行し、鎌倉滞在中には、三浦義澄に招かれ三浦を訪れている。

建仁3年(1203)12月、42歳で前権僧正・慈円の譲りを受けて権少僧都に任じられ、承元年間中に阿闇梨を授けられ、法眼、権大僧都に叙任、建暦年間には法印に昇叙される。

建暦元年(1211)、実朝の招きによって鎌倉に下向し、10月に尊勝法を修し帰洛。

建保元年(1213)4月28日、勝長寿院において不動法を修し、一旦帰洛しまた鎌倉に下り、同年10月、実朝の委嘱によって山王供を修す。

建保3年3月、実朝の依頼により鎌倉において一字金輪法、愛染王法を修す。

建保4年(1216)、鎌倉に招かれ、実朝が持仏堂に安定した七仏薬師像の供養に導師を勤め、また仏眼(ぶつげん)法を修す。ついで閏6月には船上に壇を設け、六字河臨(ろくじかりん)法を修す。

同じ建保4年7月、相模川河畔で六字河臨法を修す。この時、将軍・実朝は1万騎を率い来たり、威儀を正してこれに臨席。この年8月、鶴岡八幡宮の傍に北斗堂が建立され、この落慶供養にも導師となる。

建保6年(1218)2月、実朝は忠快僧都に嘱して如法仏眼法を修し、息災安穏を祈らせる。

元久2年11月、後鳥羽上皇御所の高陽院が竣功し、前大僧正・慈円が11月22日にこれの導師を勤める。忠快は伴僧の一人としてこの法会に加わり、その次第を詳記した『安鎮法日記』を草す。

貞応2年(1223)3月、法印権大僧都の忠快は、後高倉院の院宣を蒙って炎魔天供を修し、上皇の御悩の平癒と寿命の長遠を祈願する。

承久2、3年の頃、忠快は横川の長吏に補され、長吏を7年勤め、安貞元年(1227)3月16日、66歳で没す。

5月22日

・義経死すの報、鎌倉に届く。頼朝、これを京都に連絡(「吾妻鏡」同日条)。

29日、京にも届く。

朝廷はもはや泰衡の責任を問う必要はなくなったとするが、頼朝は既に2月に泰衡追討の動員を全国にかけており、出兵強行の意思を表示。

「今日、能保朝臣告げ送りて云く、九郎泰衡の為誅滅せられをはんぬと。天下の悦び何事かこれに如かずや。実に仏神の助けなり。抑もまた頼朝卿の運なり。言語の及ぶ所に非ざるなり。」(「玉葉」同29日条)。


つづく


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