2023年2月25日土曜日

〈藤原定家の時代282〉文治6/建久元(1190)年11月17日~11月29日 後白河、頼朝の在京奉公を要望し右近衛大将(右大将)に補任 頼朝にはその気はないが拒否できず     

 


〈藤原定家の時代281〉文治6/建久元(1190)年11月8日~11月16日 頼朝、後白河と会見、ついで後鳥羽天皇、摂政兼実と会見 「頼朝また運あらば、政何ぞ淳素(簡素)にかへらざらん哉。当時は偏に法皇に任せ奉るの間、万事叶うふべからず」(「玉葉」) より続く

文治6/建久元(1190)年

11月17日

・東大寺上棟のために南都に赴く後白河、この日、宇治平等院へ立ち寄る。兼実、良経、定家も平等院に赴く。


18日、定家は宇治を出発するとき、平等院執印であった慈円に、

鳴き初(そ)むる鳥の初音におきゐれば 唯事治山の有明の月

など十首の歌を贈る。慈円は、

月影はおりゐの山に傾きて 鳥のそらねも有明のそら

など十首を返す。この話を定家にきいた良経も早速、

鳥の音の哀をかくる袖のうへに 月も色ある宇治の曙

など十首を慈円に送る。


11月18日

・頼朝、清水寺に威儀を正して参じ、法華経を読誦(どくじゅ)させる。

11月19日

・この日午後、頼朝は妹婿の一条能保と参院、後白河と対面数刻に及んだという。話し合いの中味は具体的にはわからないが、後白河が頼朝に要請した案件のひとつに、頼朝の在京奉公があったと考えられる。

「未の刻、大納言家(直衣)仙洞に御参り。左武衛(能保)参会せらる。法皇御対面、数刻に及ぶと。」(「吾妻鏡」同日条)。

11月22日

・頼朝のもとに右近衛大将(右大将)補任の院宣が到来、すぐに頼朝は辞退の請文を提出。頼朝の希望する「朝の大将軍」に対し、後白河が禁中の警護や行幸の警備などを行う近衛府の長官である右大将に補任したのは、在京奉公の具体化だったのかもしれない。

11月23日

・頼朝、再び参院し、終日御前に祇候。頼朝には在京奉公の意図はなかったが、結局法皇に押し切られた。

「大納言家仙洞に御参り。終日御前に候せしめ給う。また長絹百疋・綿千両・紺絹三十端内臺盤所に進せらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

11月24日

・右大将花山院兼雅が辞表を提出、同日除目が行われ、頼朝は右大将に補任された。

頼朝は征夷大将軍を望むが、後白河法皇と源通親が頼朝を右近衛大将に任じてやんわりと要求をかわす。しかし、建久3年(1192年)の後白河法皇没後、通親は、九条兼実提案の頼朝への征夷大将軍任命に一転して賛同。法皇没後も政治的基盤の確保は怠らず。

11月26日

・右大将家の番長を右府生秦兼平(うふしようはたのかねひら)、一座を播磨貞弘(はりまのさだひろ)とするなどの人事が行われ、28日には拝賀の随兵が定められ、30日には拝賀に用いる毛車(けぐるま)・廂車(ひさしぐるま)や装束などが法皇から届けられ、その準備が進められた。

11月29日

・この日夜、頼朝、参院。布衣(ほい、狩衣の下に腹巻を着す)の御家人12人を伴ったという。頼朝の用心深さが表れている。

「夜に入り右大将家御院参。布衣の侍十二人御共に在り。各々狩衣下に腹巻を着すと。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく

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