2023年2月3日金曜日

〈藤原定家の時代260〉文治4(1188)年8月9日~9月29日 定家(27)殷富門院に参上 「黄昏ニ殷富門院ニ参ズ。大輔卜清談。漸ク亥ノ刻ニ及ブ。人無ク寂莫タリ。退出セント欲スルノ間、忽チ門前ニ、松明ノ光アリテ参入ノ人アリ。内外相驚ク。権中将参入。、、、」(『明月記』)        

 


〈藤原定家の時代259〉文治4(1188)年5月17日~7月28日 藤原泰衡の京への貢馬・貢金、鎌倉着 兼実、仏師康慶と対面 源頼家(7)の着甲始 より続く

文治4(1188)年

8月9日

・頼朝、比叡山僧が義経に同意し、藤原泰衡が義経を匿ったことについて沙汰が遅いと朝廷に抗議。

「台嶺の悪僧等豫州に同意する事、前の民部少輔基成並びに泰衡同人を奥州に穏容する事、御沙汰頗る遅怠す。急速に申し達せしめ給うべきの由、右武衛に仰せらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月15日

「鶴岡の放生会なり。二品御参り。先ず法会の舞楽、次いで流鏑馬。幸氏・盛澄等これを射る。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月17日

・比叡山の住侶来光房永実の同宿の千光房七郎が夜討ちを計画。延暦寺の法印円良に捕進を命じる。

「右兵衛の督能保の消息到来す。路辺群盗蜂起の事、疑貽の分に至りては、所々に相触れをはんぬ。就中、叡山飯室谷竹林房住侶来光房永實の同宿(千光房七郎僧と号す)、悪徒浪人等を招き卒いて、夜討ち以下の悪行をせしむの由、普く風聞するの間、奏聞を経をはんぬ。仍って法印圓良に仰せ召さるるの処、去る四日彼の僧を召し進すの由、請文を捧ぐ所なりと。また云く、藤原宗長石清水の訴えに依って、去る五日配流の官符を下さる。土佐と。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月17日

・頼朝の奏請により諸国殺生を禁じる宣旨下る(「吾妻鏡」8月30日条)。

8月20日

「前の廷尉康頼入道また訴状を捧ぐ。これ阿波の国麻殖保の事、地頭刑部の丞成綱武威に募り、保司を用いざるの間、恩沢拠所無きに似たり。しかのみならず、内蔵寮の済物闕乏するの故、成綱の地頭職を停止すべきの由、院宣を下さるる所なり。彼と云い是と云い、二品驚かしめ給う。地頭を諸国に補し置かるる事、朝廷を警衛し、国乱を治めんが為なり。而るに公物を抑留し、穏便ならざるの由沙汰有り。成綱地頭職を領掌せしむと雖も、領家方に相交るべからざるの旨仰せ下さると。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月23日

・「波多野の五郎義景と岡崎の四郎義實と、御前に於いて対決を遂ぐ。これ相模の国波多野本庄北方は、義景累代相承の所領なり。而るに在京の隙を窺い、義實これを望み申す。帰参の後義景申して云く、当所は、保延三年正月二十日、祖父筑後権の守遠義二男義通に譲與すと。また嘉応元年六月十七日、義景に譲るの後、牢籠無きの処、何の由緒に依って望み申すや。これに就いて召し決せらるるの刻、義實申して云く、孫子先法師の冠者に與うべきの由、義景先年の状有りと。義景申して云く、先法師は義景の外孫なり。縦え譲状を請けると雖も、外祖存生す。爭か競望すべきか。これ偏に義實の奸曲なりと。義實雌伏す。未来を全うせんが為言上する所なりと。御成敗に云く、当所の進退、宜しく義景の意に任すべし。義實の造意尤も不当なり。その科に依って、百箇日の間鶴岡並びに勝長寿院等の宿直に勤仕すべしと。」(「吾妻鏡」同日条)。

「岡崎の四郎義實罪科に依って、鶴岡・南御堂等の宿直に勤仕すべきの由命を含み、数日丹府を悩ます。而るに義實郎従等、筥根山麓に於いて、山賊の主(字王籐次)を搦め進すの間、今日免許を蒙る所なり。」(「吾妻鏡」9月21日条)。

9月3日

・源頼政側近の宮内大輔重頼、若狭の遠敷郡松永保・宮河保の地頭として国衙の課役を非法なく勤仕すべきと命ぜられる(「吾妻鏡」同日条)。朝廷側の巻返し。

「宮内大輔重頼不法の事、院宣を下さるるに就いて、早く停止せらるべきの由、重頼に仰せ遣わさる。また勅願寺領の年貢済否の事、面々に尋ねらるると雖も、地頭の請文等未だ整わざるの間遅々するの由、同じく申さるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

9月12日

・後白河法皇(62)、四天王寺の如法経十種供養に幸す

9月14日

・奥州に遣わした官使が、泰衡の請文と陸奥・出羽両国司の申状の返状を持参してやっと帰京(『玉葉』9月14日条)。泰衡が宣旨と院庁下文の内容を承諾したということであるが、それは形ばかりのことであったようで、その後も義経問題にはなんら進展はなかった。

9月14日

・城永茂(越後平氏、助職を改名)、頼朝御家人になる為に面談。定任(じようにん)僧都が嘆願。誇りある態度を取り御家人になれず。

城永茂、この年前半頃、捕虜となり鎌倉に送られ梶原景時に身柄を預けられる。

9月、頼朝が帰依する定任僧都が熊野から鎌倉に参向。平永茂も定住を師と仰ぐ者で、定任は頼朝に永茂赦免・御家人取りたてを願い容れられる(「吾妻鏡」)。

14日、頼朝と定任の会談。御家人も、南の上座に畠山重忠(恒武平氏秩父流)、北の上座に梶原景時が参列。この時、永茂は頼朝に背を向けて座るという不適な態度をとり、御家人に列する件は消滅。後、奥羽遠征で戦功あげ御家人となる。

9月29日

・定家(27)、殷富門院に参上。女房の大輔と清談しているところに親友の藤原公衡が参上、連歌・和歌が詠まれ、他の女房も加わり種々の「狂言」がかわされる。

「文治四年九月二十九日。壬戌。天陰。夜ニ入リテ雨降ル。良辰徒ラニ暮ル。黙止難キニ依リテ、黄昏ニ殷富門院ニ参ズ。大輔卜清談。漸ク亥ノ刻ニ及ブ。人無ク寂莫タリ。退出セント欲スルノ間、忽チ門前ニ、松明ノ光アリテ参入ノ人アリ。内外相驚ク。権中将参入。語ラレテ云ク。已ニ寝ニ付カント欲スルノ間、庭前ノ木葉忽チニ落チテ、嵐ノ音ヲ聞ク。遂ニ寝ル事能ハズ。忽チニ出デテ騎馬シ、参ズル所ナリ。人候フベカラザル由、存ズルノ間、件ノ車ヲ見テ、感涙相催スノ由、女房感悦ス。更ニ又灯ヲ掌リ、連歌和歌等、新中納言・尾張等相加ハル。種々ノ狂言等ナリ。鶏鳴数声ニ及ンデ、雨漸ク滂沱タリ。遠路天明ケバ不便ノ由、急ギ出デラル。猶排桐ス。空階雨滴ノ句、数返。笠ヲ借リテ退出ス。蓬ニ帰ル間ニ、天漸ク曙ク。」(「明月記」)

秋深く、徒然しのびがたく、黄昏に殷富門院に赴く。ここで女房大輔と清談する。十時に及んで、騎馬で親友の権中将藤原公衛もまた、秋葉嵐に落ちる音を聞いて寝られず訪れた。当時公衝は、皇后宮権亮であり、皇后宮は、幼帝後鳥羽の准母としての殷富門院亮子であった。公衡は、定家の車を見つけて感涙、女房達もこの訪問に感悦。早速、新中納言・尾張という女房も交えて、連歌や和歌に興ずる。鶏鳴に及び大雨となる。公衛は夜の明けぬうちにと帰る。定家は、余情尽きぬままに徘徊する。〈空階雨滴〉という詩を朗誦しつつ退出する。

殷富門院:

後白河の第1皇女。母は藤原季成の女成子(高倉三位)、式子内親王・以仁王と同腹の姉。寿永元(1182)安徳天皇の准母とされ皇后となり、翌2年(1187)6月皇后を去り殷富門院の院号を与えられる。非婚の内親王が天皇の准母になり、政界を安定の役割を果す機能を持つ。

八条院:

鳥羽と美福門院の内親王で二条天皇の准母となる。

令子内親王:

白河の内親王で、子の堀川天皇没後、鳥羽の准母となる。都落ち平氏の公達と別れて都に留まった女性が身を置く場でもある(建礼門院右京太夫:建礼門院に仕える。恋人平資盛が都落ちした後、殷富門院と交流)。


つづく


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