2023年2月17日金曜日

〈藤原定家の時代274〉文治5(1189)年10月 奥州合戦まとめ2 頼朝の「公戦」へのこだわりと公認を拒み続けた後白河の思惑

 


〈藤原定家の時代273〉文治5(1189)年10月1日~10月24日 定家(28)、『宮川歌合』の判をする 頼朝、鎌倉に凱旋 奥州合戦まとめ1 何故頼朝は義家(後三年の合戦)でなく、その一代前の頼義(前九年の合戦)を模したのか? より続く

文治5(1189)年10月

〈頼朝の「公戦」へのこだわりと公認を拒み続けた後白河の思惑〉

頼朝は奥州征討に当たって、終始、気に懸けていたのは征討の宣旨を得られるか否か、つまり「公戦」になるか「私戦」になるかという点であった。

進発に当たって頼朝は、院宣を待つ必要はないという大庭景能の言葉で意を強くしたが、景能はその際同時に、泰衡は代々源氏の家人としての地位を受け継ぐものであるから、朝廷の許可がなくとも制裁を加えることに何の問題があろうかという見解も付け加えている。恐らくこの時点で頼朝は、院宣は出されないものと判断して、「私戦」として遂行する覚悟を決めたと思われる。

合戦終了後、頼朝は8月23日には一条能保へ、9月8日には吉田経房へ書状を送り、経房宛書状で頼朝は9月3日に泰衡を打ち取ったことを伝え、本来ならその首を京都へ送るべきところだが、遠方であるし、大して貴人でもない上に「相伝の家人」であるから送らないと述べている。

ところが、頼朝のこの手紙と行き違いに、征討を命じた7月19日付の院宣が9月9日に到着する。これによって頼朝は一旦は諦めた「公戦」の看板を掲げることが可能になたわけで、9月18日、攻めて降人を京都へ送るべきかどうかについて経房宛に消息を書いている。

さらに鎌倉に帰着して間もないうちに、大江広元を召して経房や能保らに消息を遣わしている。そして、11月3日、能保の飛脚らが鎌倉に着き、征討の功を賞すると共に、降人の扱いや勧賞のことを記した院宣が届いたとき、頼朝は大喜びしたといわれる。

頼朝にとって、奥州合戦が義家の後三年の合戦の轍を踏んで、「私戦」として切り捨てられてしまう事態だけは、なんとしても避けたかった。そして、ひとたび「公戦」という承認を得た後は、頼朝は単なる恩賞でなく陸奥・出羽両国の支配権獲得を目指すという強気の姿勢に転じる。11月、頼朝は大江広元を京都に派遣して、泰衡追討の賞を辞退し、さらに12月にも重ねて辞退する一方で、陸奥・出羽両国の管領を要求する。

奥州合戦の公認を巡る一件においても、後白河と頼朝との暗黙の戦いが行われていた。

そもそも後白河が頼朝との不和を承知しながら義経を寵愛したのは、単なる好き嫌いではなく、頼朝の勢力の強大化を恐れ、その対抗者を育てることを狙ったからである。義経が逃亡し奥州の藤原秀衡のもとに匿われた後も、後白河は奥州出兵について終始消極的であった。そうした後白河に対し、頼朝は文治5年(1189)3月、閏4月、6月と三度にわたって出兵許可を求めて使いを送るが、後白河は許可を出さない。遂に頼朝が強引に出兵し、後白河が追認するという形で終わる。

後白河が奥州合戦に「公戦」としての承認を与えることをためらったのは、義経を庇護したのと同様、奥州藤原氏という頼朝の背後の勢力を温存し、頼朝を牽制することに狙いがあったが、それ以上に、頼朝によって奥州が征服されると、日本全体を東と西とに大きく二分する体制が成立することを意味し、それは国家の分裂に他ならないからである。後白河にとって、金・鷲の羽・馬・布など、奥州特産の富もまた魅力だったし、そうした富を自分の掌中にするために、頼朝に奥州を征服させることが得策でなかった面もるが、何よりもまず後白河は、そうした私的な利害を超えた院と朝延にとっての得失を睨んでいた。

後白河以外の貴族たちは、奥州合戦や奥州そのものについても、ほとんど無関心だったようだ。兼実は奥州合戦の勝利について、簡単に「天下の慶びなり」と記すのみだし、『百錬抄』も、頼朝が幾ばくの日数も費やさずに勝利したことに 「兵謀の至り、古今無類のものか」という賛辞を載せるのみであった。

しかし、後白河は朝廷の利害に関する事柄に関しては明敏であり、奥州の経済的意義についても、当時の京都朝廷にあってはもっとも的確に理解していた。源氏と院との奥州を巡る暗闘という風に問題を捉えれば、頼朝対後白河という対立は、義家対白河という対立関係の歴史的再現だということもできる。

頼朝が自家の歴史に教訓を得たとすれば、後白河も同様に後三年の合戦の経過について、独自の見解を持っていたと考えられる。現存する『後三年合戦絵巻』の原型として、承安元年(1171)に後白河が静賢(じようけん)法印に命じて制作させた四巻本の『後三年合戦絵巻』があったことが記録されている。この絵巻を制作させた後白河の意図はよくわからないにしても、これによって後白河が多くを学んだであろうことは確実である。

したがって、奥州合戦は、頼朝に軍配が上がったように見えても、後白河は死ぬまで頼朝に奥州の軍事支配の名義上の正統性を裏づける征夷大将軍という称号は拒み通すという形で、自己の原則を貫徹した。


つづく


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