2023年2月13日月曜日

〈藤原定家の時代270〉文治5(1189)年8月11日~8月26日 和田義盛と畠山重忠が功を争う 快慶の興福寺弥勒像完成 「泰衡平泉の館を過ぎ猶逃亡す。、、、杏梁桂柱の構え、三代の旧跡を失う。麗金昆玉の貯え、一時の新灰と為す」(「吾妻鏡」) 頼朝、平泉に入城。焼失を免れた建物の絢爛豪華な黄金文化に目を見張る。   

 

〈藤原定家の時代269〉文治5(1189)年8月1日~8月10日 奥州合戦 畠山重忠の工兵隊の活躍 国衡討たれる(和田義盛に射られ、重忠の郎党に首をとられる) 泰衡、北へ敗走 より続く

文治5(1189)年

8月11日

・和田義盛、畠山重忠と功を争う

・船迫(ふなさこ)の宿に滞在する頼朝のもとに重忠が国衡の首を持参してきた。頼朝が大いに誉めていると、和田義盛が進み出て、国衝は義盛の矢にあたって命を落したので、重忠の功績ではない、と言う。重忠は、義盛の言い分に証拠があるのか、重忠が首を持ってきたのだから間違いはあるまいと言う。義盛は、首を取ったのは重忠であることは言うまでもない。ただ、国衝の鎧は定めて剥取ってあることだろう、それを持ってきて実否を確かめて頂きたい。何故なら、自分は大高宮の前で国衡にあい、射向けの袖の札(さね)の2、3枚目辺に射中(いあ)てたから、その鏃(やじり)の穴があいている筈である。よろいのおどし毛は紅で、馬は黒毛であった、言った。そこで、鎧を取り寄せてみると、まず紅威(くれないおどし)で、射向けの袖(鎧のの左袖)には3枚目のうしろよりに射透した跡がはっきりついており、その穴は鑿(のみ)を打ち込んだように鋭かった。そこで頼朝が重忠に、矢を射たかと訊く、射ませんでした、と答えたところ、頼朝は良いとも悪いとも言わず黙ってしまった、という。

『吾妻鏡』は、鏃の跡からみて、重忠でなければ義盛に相違ない、義盛の言うことは、始めから終りまで符合していて、少しも違うところがない、だから義盛と言ってよい。が、重忠もその性質は天性清廉潔白であり、詐偽なきをもって本意としているものである、今度のことはことに不正を知らなかったものであると思われる、追跡の時郎従が先登にいて重忠は遅れていたので、国衡が矢に中ったことは全く知らなかっ、大串次郎が首を持って来て、重忠に渡したので、討取ったと思って、疑ってもみなかったのであろう、と書いている。

「今日、二品船迫の宿に逗留し給う。この所に於いて重忠国衡の頸を献る。太だ御感の仰せを蒙るの処、義盛御前に参進し、申して云く、国衡は義盛の箭に中たり亡命するの間、重忠の功に非ずと。・・・時に仰せに曰く、国衡に対し、重忠矢を発せざるかてえり。重忠矢を発せざるの由を申す。その後是非に付いて御旨無し。・・・凡そ義盛の申す詞始終符合し、敢えて一失無し。但し重忠はその性清潔に稟け、詐偽無きを以て本意と為すものなり。今度の儀に於いては、殊に奸曲を存ぜざるか。彼の時郎従先を為し、重忠後に在り。国衡兼ねて矢に中たる事、一切これを知らず。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

8月12日

・大手軍、この日夕方、多賀国府(宮城県多賀城市)に着く。ここに千葉常胤・八田知家の率いる東海道軍も合流。

8月13日

・頼朝、陸奥国府の多賀城に到着。北陸道軍、出羽で田河行文・秋田致文を追討。(「吾妻鏡」同日条)。

8月14日

「泰衡玉造郡に在るの由風聞す。また国府中の山上物見岡に陣を取るの由その告げ有り。・・・物見岡を尋ねんが為、小山兵衛の尉朝政・同五郎宗政・同七郎朝光・下河邊庄司行平等を遣わす。仍って各々件の岡に馳せ向かう。相囲むの処、大将軍は、これより先に逐電し、その居所に幕ばかりを残し置く。その内相留まる郎従四五十人防戦すと雖も、朝政・行平等の武勇を以て、或いは梟首或いは生虜り、皆悉くこれを獲る。時に朝政云く、吾等は大道を経て、先路に於いて参会すべきか。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月15日

・快慶の興福寺弥勒像ができる。

8月18日

・安達盛長が預かる平氏囚人の筑前房良心、14日の物見岡の合戦で泰衡の郎徒を討ち赦される(「吾妻鏡」同日条)。

8月20日

「卯の刻、二品玉造郡に赴かしめ給う。則ち泰衡の多加波々城を圍み給うの処、泰衡兼ねて城を去り逃亡す。自から残留の郎従等手を束ねて帰降す。この上は、葛岡郡に出て平泉に赴き給う。戌の刻、御書を先陣の軍士等の中に遣わさる。・・・僅か一二千騎を率い馳せ向かうべからず。二万騎の軍兵を相調え競い至るべし。すでに敗績の敵なり。侍一人と雖も無害の様、用意を致すべしてえり。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月21日

・泰衡、北に逃れ平泉に着。館に火を放ち北へ逃れる。

「泰衡を追って、岩井郡平泉に向かわしめ給う。而るに泰衡郎従、栗原・三迫等に於いて要害を築き鏃を研ぐと雖も、攻戦強盛たるの間、防ぎ奉るに利を失い、宗たるの者若次郎は、三浦の介の為誅せらる。同九郎大夫は、所の六郎朝光これを討ち獲る。この外の郎従悉く以て誅戮す。残る所の三十許輩これを生虜る。爰に二品松山道を経て津久毛橋に到り給う。・・・泰衡平泉の館を過ぎ猶逃亡す。縡急にして自宅の門前を融ると雖も、暫時逗留するに能わず。纔かに郎従ばかりを件の館内に遣わし、高屋・宝蔵等に放火す。杏梁桂柱の構え、三代の旧跡を失う。麗金昆玉の貯え、一時の新灰と為す。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月22日

・頼朝、玉造郡を経て平泉に入城。京都に報告の使者を派遣。絢爛豪華な黄金文化に目を見張る。泰衡捜索を命じ、千葉胤頼を衣川館に派遣。

25日、前民部少輔藤原基成父子を捕捉(「吾妻鏡」同日条)。

「申の刻、泰衡の平泉の館に着御す。主はすでに逐電し、家はまた烟と化す。・・・但し坤角に当たり、一宇の倉廩有り。余焔の難を遁る。葛西の三郎清重・小栗の十郎重成等を遣わしこれを見せしめ給う。沈紫檀以下唐木の厨子数脚これに在り。その内に納める所は、牛玉・犀角・象牙の笛・水牛の角・紺瑠璃等の笏・金沓・玉幡・金華鬘(玉を以てこれを餝る)・蜀江錦の直垂・不縫帷・金造の鶴・銀造の猫・瑠璃の灯爐・南廷百(各々金の器に盛る)等なり。その外錦繍綾羅、愚筆余算に計え記すべからざるものか。象牙の笛・不縫帷は清重に賜う。玉幡・金華鬘は、また重成望み申すに依って同じくこれを給う。氏寺を荘厳すべきの由申すが故なり。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

8月22日

・兼実、南都に下向して興福寺の造営を検知し、康慶の仏所を訪ねて完成間近の像を拝す。完成間近の像を見た兼実は、仏像の顔かたちに不審があり、翌日再び仏所に参り、康慶に指示をしたところ、康慶は「大略承伏」したという。

8月23日

・頼朝、京都の一条能保に宛てて戦況報告の飛脚を出す。

8月26日

・泰衝、投降・亡命するゆえ許してほしいと頼朝に書状で嘆願。義経は父秀衡が扶持したもの、自分は頼朝命に従い義経を討った。奥州・出羽両国は既に頼朝沙汰に入っており、自分を赦して御家人に列して欲しい、叶わなければ、遠流されても構わない。頼朝、これを許さず。

「・・・もし慈恵を垂れ、御返報有らば、比内郡の辺に落とし置かるべし。その是非に就いて、帰降走参すべきの趣これに載す。親能御前にて読み申す。・・・書を比内郡に置くべきの由、泰衡言上するの上は、軍士等各々彼の郡内を捜し求むべきの旨仰せ下さると。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく

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