2023年2月2日木曜日

〈藤原定家の時代259〉文治4(1188)年5月17日~7月28日 藤原泰衡の京への貢馬・貢金、鎌倉着 兼実、仏師康慶と対面 源頼家(7)の着甲始      

 


〈藤原定家の時代258〉文治4(1188)年3月9日~4月25日 重源、頼朝に書状、頼朝の勧進に期待 義経追討の院宣を持った勅使、平泉に下向 途中、鎌倉に到着 「千載和歌集」奏覧 より続く

文治4(1188)年

5月17日

・藤原信房・天野遠景ら、鬼界ヶ島を平定(「吾妻鏡」同日条)。

6月4日

「所々の地頭沙汰の間の事、條々を注し師中納言経房に付せしめ給うの処、御返報今日到着す。勅答の趣に於いては、子細を譲らんが為、権右中弁定長朝臣の奉書を副え献る所なり。 相模の国大井庄の事 延勝寺領なり。年貢に於いては、早く寺家に進すべし。 上総の国伊隈庄の事 金剛心院領なり。年貢に於いては、早く寺家に進納すべし。・・・ 蓮花王院領伊豆の国狩野庄 同領常陸の国中郡庄 ・・・ 上総の国管生庄 ・・・ 下野の国中泉・中村・塩谷 相模の国早河庄の事 以上四箇所、同家領なり。年貢沙汰し送るべし。・・・ 八條院領 信濃の国 大井庄 常陸の国 村田・田中・下村庄・・・ ・・・ 相模の国 山内庄 武蔵の国 大田庄 ・・・ 遠江の国 笠原庄 播磨の国景時知行の所々の事 ・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

6月10日

・馬や金など貢物を携えた泰衝の京への使者、大磯到着。頼朝、これを逗留させず。

処置を問うた三浦義澄に対して頼朝は、泰衡は反逆者義経にくみする者だが、有限の公物を抑留できない(つまり京都に送れ)と命じている。『吾妻鏡』は、泰衡が貢馬・貢金してきたことを宣旨に応じたことのように記している(6月11日条)が、泰衡にとっては去年来の頼朝の要請に基づく、余裕を持った通常の貢進だったと思われる。

6月18日

・兼実、興福寺の造仏始の儀式に参加して、仏師康慶(運慶の父)と対面。

7月5日

・熊谷次郎直実の娘玉鶴姫、妙蓮と名乗り母の菩提を葬うため信州善光寺へ参詣(姫塚伝説)。

7月7日

・源通親、淳和院・奨学院別当となる。この年、源氏長者に任じられる。

7月9日

・九条兼実、藤原季経・経家、藤原定家を召して連歌に興じる。

7月10日

源頼家(7)の着甲始。宿老・家臣らがそれぞれの役をつとめ、畠山重忠・三浦義澄・和田義盛の3人で馬にのるのを扶ける。

北条義時(26)、頼家の着甲始の儀に参列。進み出て頼朝の御簾を上ぐ。

「若公(万寿公、七歳)始めて御甲を着せしめ給う。南面に於いてその儀有り。時刻に二品出御す。江間殿参進し御簾を上げ給う。次いで若公出御す。武蔵の守義信(乳母夫)・比企の四郎能員(乳母兄)これを扶持し奉る。小時小山兵衛の尉朝政御甲直垂(青地錦)を持参す。以前の御装束を改む。朝政御腰を結び奉る。次いで千葉の介常胤御甲納櫃を持参す。子息胤正・師常これを舁き前行す。胤頼扶持し、また後に従う。常胤御甲を南に向かい立てしめ給う。この間梶原源太左衛門の尉景季御刀を進す。三浦の十郎義連御劔を進す。下河邊庄司行平御弓を持参す。佐々木の三郎盛綱御征矢を献る。八田右衛門の尉知家御馬(黒、鞍を置く)を献る。子息朝重これを引く。三浦の介義澄・畠山の次郎重忠・和田の太郎義盛等扶け乗せ奉る。小山の七郎朝光・葛西の三郎清重騎の轡を付く。小笠原の弥太郎・千葉の五郎・比企の彌四郎等御馬の左右に候す。三度南庭を打ち廻り下り御う。今度足立右馬の允遠元これを抱き奉る。次いで甲以下解脱す。親家御物具・御馬を給い、御厩の納殿等に入る。その後武州御馬を二品に献る。里見の冠者義成これを引く。次いで西侍に於いて盃酒有り。二品寝殿の西面(母屋の御簾を上ぐ)に出御す。武州経営する所なり。初献の御酌は朝光、二献は義村、三献は清重なり。入御の後、武州酒肴並びに生衣一領、同じく小袖五領を御台所に奉る。若公の御吉事を賀し申すが故なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

7月11日

「六條殿の御作事、二品御知行の国役は、親能の奉行として、大工国時を以て造進せられんと欲す。遠江の国所課の事御教書を下さる。今日到来す。則ち彼の国司義定に付けらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

7月13日

「また師中納言(経房卿)の奉書到来す。隠岐の守仲国、宮内権大輔重頼地頭と称し所々を押領するの由を申す。仍って今日御請けを申さる。・・・この外、美濃の国の郷々地頭押領の事、能盛入道・為保・成季等進す所の折紙並びに在廰の勘状、同じくこれを下さる。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

7月17日

「右武衛の飛脚参着す。去年夏の比、御家人藤原宗長と石清水の神人等と闘靜す。神人聊か疵を被るに依って、去る十一日院宣を下さるる所なり。この事度々仰せらるると雖も、左右無く召し進すの條、傍輩の思う所その恃み無きに似たり。仍って猶予するの処、事すでに重事に及ぶ。何様進退すべきやと。則ち院宣を副え進せらる。 放生会駕輿丁の神人等訴え申す事、法印成清の申状これを遣わす。この事、去年すでに神事違例に及ぶ。今年に於いては、違乱異儀有るべからざるか。朝家の大事この事に非ざるや。抑も神社の訴訟その理無きと雖も、敬神他に異なるに依って、一旦裁許有り。追って厚免せらるは常法なり。然れば彼の宗長、先ずその罪科を贖い、追って左右有るべき事なり。随ってまた指せる親族に非ず、ただ郎従たるか。且つは公私の為宜しく忠を顕わすべし。強ち拘留申せしめ給うべからざるか。てえれば、院の御気色此の如し。仍って執啓件の如し。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

7月17日

・源定房(59)没

7月28日

「式部大夫親能武威に募り、他人の領所を貪り、乃貢を抑留するの間、勅問に預かると雖も陳謝を失うの由、その讒出来するに依って、二品親能の許に尋ねしめ給うの処、委細の言上に能わず。ただ去る六月すでに陳状を捧げをはんぬ。案文これを献上す。もしこの事に候かの由これを申す。曲折無きかの由、二品感ぜしめ給うと。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく

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