2023年2月11日土曜日

〈藤原定家の時代268〉文治5(1189)年7月19日~7月29日 〈奥州合戦の政治的意味〉 「御進発の儀、先陣は畠山の次郎重忠なり」(「吾妻鏡」) 平永茂(長職)、論功行賞によりのちに御家人となる 29日「白河関を越え給う。」(「吾妻鏡」)

 

歌川芳虎 作「奥州高館大合戦」

文治5(1189)年7月5日~7月19日 頼朝、奏衡追討の宣旨を待たず奥州藤原氏征伐に出陣 大手軍・東海道軍・北陸道軍の3隊28万4千(実際は3~4万)に分け進撃開始 より続く

文治5(1189)年

7月19日

〈奥州合戦の政治的意味〉

①全国の武士層を一斉に動員し、頼朝自身がそれを率いて出陣することで、内乱期御家人制を清算し、改めて鎌倉殿頼朝と全国の御家人との主従関係を再編・強化する。

全国から動員された軍勢は、御家人の郎従までも含めると「軍士二十八万四千騎」(『吾妻鏡』)9月4日条)という。実際には3,4万程度ともいわれるが、実数は判然としないものの、未曾有の規模の大軍勢が頼朝にしたがって奥州を進んだ。かつて奥州藤原氏と連携して頼朝に敵対した常陸国の佐竹隆義の嫡子秀義や、越後から南奥会津に大きな勢力を張り、奥州藤原氏と並び称された越後城氏の城助職(長茂)も含まれている。

平氏や義仲を追討するために、各地の武士を召集し御家人の編成にあたっていたのは、追討使として畿内・西国に派遣された範頼や義経、各国に設置された惣追捕使であったが、御家人に認定された諸国の武士は、主君頼朝の見参(げさん)に入ることもなかく、鎌倉殿に対する奉公の観念は希薄であった。そのような内乱期御家人制の弱点を克服し、頼朝と全国の御家人との主従関係を再編・強化する「政治」として、この戦争は遂行された。

②頼義の後継者として自らの権威を確立しようとした。

軍旗、泰衡の首のさらし方、厨川への進軍、9月17日という日付にいたるまで、頼朝の先祖の鎮守府将軍源頼義が、康平5年(1062)9月17日に厨川において安倍貞任を討った前九年合戦の再現として演出されている。頼朝にとって頼義は、河内源氏の武将のなかで最も崇拝する「曩祖(のうそ)将軍」であり、前九年合戦はその「曩祖将軍」が朝敵安倍氏を追討した輝かしい軍功の場であった。頼朝は全国から動員した武士たちにこの「前九年合戦」を追体験させ、頼義の軍功を彼らに強烈に認識させることによって、武士社会の名誉意識に基づいて、頼義の後継者として自らの権威を確立しようとした。


午前10時ごろ進発。先陣畠山重忠は、まず軍夫(工兵隊)80人を先頭に進軍。そのうちの50人は、めいめい雨皮につつんだ征箭(そや)三腰ずつを荷ない、あと30人には鋤や鍬をもたせた。これは進軍にあたっての道の整備と主戦場となった阿津賀志山(あつかしやま、国見町)に奥州藤原氏が築造した防塁への対策でもあった。つづいて、乗馬の予備として引馬で3匹、次に重忠、つづいて従軍5騎は、弟の長野三郎重清、烏帽子子の大串小次郎重親、郎等の本田四郎近常、乳母子の榛沢(はんざわ)六郎成清・相原太郎の5人。頼朝は馬前に弓袋差・旗差・よろいなどをすすめ、従えた軍勢は1千騎、平賀義信・安田義定・蒲(かま)範頼以下一門諸大名、皆よそおいをこらして粛々と出陣した。

足利義兼、山名義範、新田義兼、阿曽沼廣綱、佐野基綱、佐貫廣綱、佐貫五郎(兼綱か)、佐貫六郎廣義(尊卑分脈他に名が見えず)が従軍。足利義兼(源姓足利氏)、奥州藤原氏征伐に際し、理真房朗安に戦勝祈願を祈祷させ、労賞として足利樺崎郷を寄進、樺崎寺が開創(「吾妻鏡」)。 

北条義時(27)、頼朝の奥羽進攻に供奉。

19日、梶原景時は、平永茂(長職)の従軍を頼朝に提案、許可され、更に永茂に城家の旗を用いることも許す。永茂は、会津4郡を奪われた恨みを奥州藤原氏に対して持つ。

28日、頼朝軍、白河郡に入り、白河関を前に新渡戸駅に進駐。頼朝は、各御家人の手勢を申告させ、永茂の郎党が200余いるのに喜ぶ。戦後、論功行賞で永茂は御家人となり、奥山荘の荘司乃至地頭に補任される(「吾妻鏡」)。

「丁丑 巳の刻、二品奥州の泰衡を征伐せんが為発向し給う。この刻景時申して云く、城の四郎長茂は無双の勇士なり。囚人と雖も、この時召し具せられば何事か有らんやと。尤も然るべきの由仰せらる。仍ってその趣を長茂に相触る。長茂喜悦を成し御共に候す。但し囚人として旗を差すの條、その恐れ有り。御旗を給うべきの由これを申す。而るを仰せに依って私旗を用いをはんぬ。時に長茂傍輩に談りて云く、この旗を見て、逃亡の郎従等来たり従うべしと。御進発の儀、先陣は畠山の次郎重忠なり。先ず疋夫八十人馬前に在り。五十人は人別に征箭三腰(雨衣を以てこれを裹む)を荷なう。三十人は鋤鍬を持たしむ。次いで引馬三疋、次いで重忠、次いで従軍五騎、所謂長野の三郎重清・大串の小次郎・本田の次郎・榛澤の六郎・柏原の太郎等これなり。凡そ鎌倉出御の勢一千騎なり。次いで御駕(御弓袋差し・御旗差し・御甲冑等、御馬前に在り)。鎌倉出御より御共の輩、・・・」(「吾妻鏡」同日条)

①頼朝自らの出陣(石橋山以後初めて)、

②28万4千の大軍。全国からの動員。⇒武威を誇るデモンストレーション。

鎌倉殿への忠節度を見極める踏み絵。謀反人・囚人預かりとされる平家家人も参戦機会が与えられる。


泰衡側の迎撃態勢:

国見宿に本営。阿津賀志山に城壁を築き5丈の堀を構築し阿武隈川の水を引き、異母兄の西木戸国衡が兵2万を指揮。苅田郡にも城郭を構築し、名取川・広瀬川を柵とする。


流人頼朝が、強固な武力基盤を背景に東国を支配するためには、豪族的な武士層を排除し、その支配下にある中小武士団を家人化して直接支配することが必要。侍所によって、東国の武士を自由に動かすためには、豪族的な武士は不要であり、「御家人体制」の中核を中小武士団とすることによって、組織を介しての支配を容易なものにしようとした。

その総仕上げが、平泉攻略

頼朝は前九年の合戦の故事にならって、泰衡の首級を安倍貞任のそれと同じ8寸の鉄釘で曝したという。しかも、この行為は多くの軍勢の前でなされたが、それは頼義当時の主従関係が譜代性をもったものと強調し、印象づけ、頼朝の立場がいかに正統性をもったものかを強烈に再認識させることにあった。泰衡梟首の後に、あえて全国の武士を引き連れて厨川まで北上したのも、「前九年の合戦」の再現であった。

安芸国の豪族葉山介宗頼や豊前国の住人貞継らは、奥羽攻撃に加わらなかったために所領を没収され、一方で、従軍した薩摩国の藤内康友や日置兼秀などは所領の安堵を受けている。頼朝は、この平泉攻略に従軍するかどうかでその忠誠心をはかり、去就をはっきりさせることもねらいとした。


7月20日

・上西門院統子内親王(64)、没(誕生:大治1(1126)/07/23)。鳥羽天皇の第2皇女・待賢門院の子。

7月25日

「二品下野の国古多橋の駅に着御す。」(「吾妻鏡」同日条)。

26日、佐竹秀義、源頼朝に臣下の礼をとり、奥州藤原氏征伐に従軍。

「宇都宮を立たしめ給うの処、佐竹の四郎常陸の国より追って参加す。」(「吾妻鏡」同日条)。

28日、「新渡戸の駅に着き給う。・・・城の四郎の郎従二百余人なり。二品驚かしめ給う。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

29日、「白河関を越え給う。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく

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