2023年2月12日日曜日

〈藤原定家の時代269〉文治5(1189)年8月1日~8月10日 奥州合戦 畠山重忠の工兵隊の活躍 国衡討たれる(和田義盛に射られ、重忠の郎党に首をとられる) 泰衡、北へ敗走 

 

芳虎 〈奥州大城戸大合戦之図〉

〈藤原定家の時代268〉文治5(1189)年7月19日~7月29日 〈奥州合戦の政治的意味〉 「御進発の儀、先陣は畠山の次郎重忠なり」(「吾妻鏡」) 平永茂(長職)、論功行賞によりのちに御家人となる 29日「白河関を越え給う。」(「吾妻鏡」) より続く

文治5(1189)年

8月1日

・「今日法然房の聖人に請い、法文語及び往生業を談る。」(「玉葉」同日条)。

8月7日

・大手軍、陸奥の国伊達郡阿津賀志山辺の国見駅に着き、翌8日攻撃と定める。藤原秀衡長男国衡(泰衝の異母兄)が大将を務める奥州軍2万が守りを固める。重忠率いる兵80人は泰衡側の阿津賀志山の城に構築した幅5丈の堀を埋め、道路を作る。

8日卯の刻(午前6時)前哨戦として、畠山重忠・小山朝光らが箭(や)合わせをはじめ、敵の前衛金剛別当秀綱と戦い、10時ごろにはこれを撃退。阿津賀志山の大木戸口に詰めよせる。佐藤庄司(佐藤継信・忠信の父)ら討たれる。

9日夜、翌10日に合戦と決定。その後、三浦義村・葛西清重ら7騎はこっそり畠山重忠の陣を通りぬけ、ぬけ駈けの功名をあげようとした。山が嶮しく、朝になって大軍が一度に登ることはできず、先登にならぬと功名ができないからである。

この時重忠の郎等榛沢(はんざわ)成清がこの7騎を見付け、重忠を諫めて言う。

今度の合戦に先陣を承ったのは抜群の誉れですから、是非立派にやりとげたい。それなのに友軍は、先を争って抜けがけをしようとしている。のんきにしてないで、早く三浦義村たちを止まらせるか、事情を本陣に通告して軍令を守らせてもらい、我らが先陣として進めるようにしましょう。

重忠は悠々として答えて言う。

いやいや、それはよくない。たとえ他人の力で敵を撃退しても、自分が先陣をうけたまわっている以上、自分が合戦を開始するまえに行なった戦いは、みな自分の功績になる。それに、先登に進みたいと張切っている連中を抑制するのは、武略の本意でないし、一つには功績を一人じめにしたいような欲ばりになる。ここは一つがまんして、ぼんやりしているのがよい。

重忠の陣が知らぬふりをしたので、7騎は夜もすがら山をこえ、木戸口に到着し、名のりをあげて攻撃をはじめた。泰衡軍も力戦し、狩野五郎親光は討死したが、他の6人はそれぞれ功名手柄をあげることができた。

夜明け近く本隊が攻撃を始め、重忠はじめ多くの武将が力戦奮闘し、大激戦となった。


一方、9日夜、小山朝光ら7人は搦手に迂回すべく伊達郡藤田の宿から会津の方を迂回し、土湯の嵩(たけ)・鳥取越をこえて、大木戸の後の山に登っており、ここで鬨の声をあげて矢を飛ばしたので、搦手にも敵が来たといって、城中は大騒ぎとなり、収拾つかず、遂に総くずれとなって敗走した。

この時、夜はあけていたが、霧が深く逃走する敵を捕捉することはむずかしかったが、小山朝光は金剛別当を討取っている。阿津賀志山の敗報をきいた泰衡は北方に逃走、国衝も行方がわからなくなった。

頼朝は追跡を命じ、和田義盛が先陣をかけぬけ夕方、芝田郡大高宮の辺に到着した。ちょうど国衡は出羽道を経て大関山を越えようとして、大高宮の前を駈けすぎた。義盛は国衡を追かけ互いに名乗りをあげて、弓手に向い合った。国衝は十四束(つか)の矢をつがえたが、義盛の放った矢が、国衡のよろいの射むけの袖を射抜いて、左肩にあたり、国衝は疵の痛みに、馬を右手にまわした。義盛も敵の副将軍を射たので、遠慮して二の矢をつがえながら、少しはなれた。その瞬間に先陣重忠の軍勢が馳けつけ、両方の間にわりこみ重忠の従軍、大串次郎重親が、深田に馬を乗入れて進退不自由になっている国衝をとっておさえて首級をあげた。

10日、多賀国府の南の国分原鞭楯にあった泰衡、戦わず北走。

宇佐美実政・天野則景、由利惟平生捕りの功で争う。梶原景時の無礼な尋問に由利は答えず。畠山重忠は礼儀尽し穏やかに問い、由利は生け捕った者の鎧・馬の特徴を答える。畠山重忠、葛岡郡の惣地頭職に補任される。

「泰衡日来二品発向し給う事を聞き、阿津賀志山に於いて城壁を築き要害を固む。国見の宿と彼の山との中間に、俄に口五丈の堀を構え、逢隈河の流れを堰入れ柵す。異母兄西木戸の太郎国衡を以て大将軍と為し、金剛別当秀綱・その子下須房太郎秀方已下二万騎の軍兵を差し副ゆ。凡そ山内三里の間、健士充満す。しかのみならず苅田郡に於いてまた城郭を構え、名取・廣瀬両河に大縄を引き柵す。泰衡は国分原・鞭楯に陣す。また栗原・三迫・黒岩口・一野辺は、若九郎大夫・余平六已下の郎従を以て大将軍と為し、数千の勇士を差し置く。また田河の太郎行文・秋田の三郎致文を遣わし、出羽の国を警固すと。夜に入り、明暁泰衡の先陣を攻撃すべきの由、二品内々老軍等に仰せ合わさる。仍って重忠相具する所の疋夫八十人を召し、用意の鋤鍬を以て土石を運ばしめ、件の堀を塞ぐ。敢えて人馬の煩い有るべからず。思慮すでに神に通ずか。小山の七郎朝光御寝所の辺(近習たるに依って祇候す)を退き、兄朝政の郎従等を相具し、阿津賀志山に到る。意を先登に懸けるに依ってなり。」(「吾妻鏡」同7日条)。

「金剛別当秀綱数千騎を卒い、阿津賀志山の前に陣す。卯の刻、二品先ず試みに畠山の次郎重忠・小山の七郎朝光・加藤次景廉・工藤の小次郎行光・同三郎祐光等を遣わし箭合わせを始む。秀綱等これを相防ぐと雖も、大軍襲い重なり攻め責むるの間、巳の刻に及び賊徒退散す。秀綱大木戸に馳せ帰り、合戦敗北の由を大将軍国衡に告ぐ。仍っていよいよ計略を廻らすと。また泰衡郎従信夫の佐藤庄司(また湯庄司と号す。これ継信・忠信等の父なり)、叔父河邊の太郎高綱・伊賀良目の七郎高重等を相具し、石那坂の上に陣す。隍を堀り逢隈河の水をその中に懸け入れ、柵を引き石弓を張り、討手を相待つ。爰に常陸入道念西の子息常陸の冠者為宗・同次郎為重・同三郎資綱・同四郎為家等、潛かに甲冑を秣の中に相具し、伊達郡澤原の辺に進出し、先登の矢石を発つ。佐藤庄司等死を争い挑戦す。為重・資綱・為家等疵を被る。然れども為宗殊に命を忘れ攻戦するの間、庄司已下宗たる者十八人の首、為宗兄弟これを獲て、阿津賀志山の上経岡に梟すなりと。」(「吾妻鏡」同8日条)。

「夜に入り、明旦阿津賀志山を越え、合戦を遂ぐべきの由これを定めらる。爰に三浦の平六義村・葛西の三郎清重・工藤の小次郎行光・同三郎祐光・狩野の五郎親光・藤澤の次郎清近、河村千鶴丸(年十三歳)以上七騎、潛かに畠山の次郎の陣を馳せ過ぎ、この山を越え先登に進まんと欲す。・・・重忠云く、その事然るべからず。縦え他人の力を以て敵を退けると雖も、すでに先陣を奉るの上は、重忠の向かわざる以前に合戦するは、皆重忠一身の勲功たるべし。且つは先登に進まんと欲するの輩の事妨げ申すの條、武略の本意に非ず。且つは独り抽賞を願うに似たり。ただ惘然を作すこと、神妙の儀なりと。七騎終夜峰嶺を越え、遂に木戸口に馳せ着く。各々名謁るの処、泰衡郎従部伴の籐八已下の強兵攻戦す。この間工藤の小次郎行光先登す。狩野の五郎命を殞す。部伴の籐八は六郡第一の強力者なり。行光相戦う。両人轡を並べ取り合い、暫く死生を争うと雖も、遂に行光の為誅せらる。行光彼の頸を取り鳥付に付け、木戸を差し登るの処、勇士二騎馬に離れ取り合う。行光これを見て、轡を廻らしその名字を問う。藤澤の次郎清近敵を取らんと欲するの由これを称す。仍って落ち合い、相共に件の敵を誅滅するの後、両人駕を安じ休息するの間、清近行光の合力に感ずるの余り、彼の息男を以て聟と為すべきの由、楚忽の契約を成すと。次いで清重並びに千鶴丸等、数輩の敵を撃ち獲る。また親能猶子左近将監能直は、当時殊なる近仕として、常に御座右に候す。而るに親能兼日に宮六兼仗国平を招き、談りて云く、今度能直戦場に赴くの初めなり。汝扶持を加え合戦すべしてえり。仍って国平固くその約を守り、去る夜潛かに二品の御寝所の辺に推参し、能直(上に臥すなり)を喚び出す。これを相具し阿津賀志山を越え、攻戦するの間、佐藤の三郎秀員父子(国衡近親の郎等)を討ち取りをはんぬ。この宮六は長井齋藤別当實盛の外甥なり。實盛平家に属き、滅亡の後囚人として、始め上総権の介廣常に召し預けらる。廣常誅戮の後、また親能に預けらる。而るに勇敢の誉れ有るに依って、親能子細を申し、能直に付けしむと。」(「吾妻鏡」同9日条)。

「卯の刻、二品すでに阿津賀志山を越え給う。大軍木戸口に攻め近づき、戈を建て箭を伝う。然れども国衡輙く敗傾し難し。重忠・朝政・朝光・義盛・行平・成廣・義澄・義連・景廉・清重等、武威を振るい身命を棄つ。・・・爰に去る夜小山の七郎朝光並びに宇都宮左衛門の尉朝綱郎従紀権の守・波賀の次郎大夫已下七人、安籐次を以て山の案内者と為し、面々に甲を疋馬に負わせ、密々に御旅館を出て、伊達郡藤田の宿より会津の方に向かう。土湯の嵩・鳥取越等を越え、大木戸の上国衡後陣の山に攀じ登り、時の声を発し箭を飛ばす。この間城中太だ騒動し、搦手に襲来する由を称す。国衡已下の辺将、構え塞ぐに益無く、謀りを廻らすに力を失い、忽ちに以て逃亡す。・・・国衡郎従等、網を漏れるの魚類これ多し。その中金剛別当の子息下須房の太郎秀方(年十三)残留し防戦す。・・・工藤の小次郎行光馳せ並べんと欲するの刻、行光郎従籐五男相隔てて秀方に取り合う。・・・一人留まるの條、子細有りと称し、これを誅しをはんぬ。また小山の七郎朝光金剛別当を討つ。その後退散の歩兵等、泰衡の陣に馳せ向かう。阿津賀志山の陣大敗するの由これを告ぐ。泰衡周章度を失い、逃亡し奥方に赴く。国衡また逐電す。二品その後を追わしめ給う

扈従軍士の中、和田の小太郎義盛先陣を馳せ抜け、昏黒に及び、芝田郡大高宮の辺に到る。西木戸の太郎国衡は、出羽道を経て大関山を越えんと欲す。而るに今彼の宮の前路右手の田畔を馳せ過ぐ。義盛これを追い懸け、返し合わすべきの由を称す。国衡名謁らしめ駕を廻らすの間、互いに弓手に相逢う。国衡十四束の箭を挟む。義盛十三束の箭を飛ばす。その矢国衡未だ弓を引かざる前、国衡の甲の射向の袖を射融し腕に中たるの間、国衡は疵の痛みに開き退く。義盛はまた殊なる大将軍を射るに依って、思慮を廻らし二の箭を構え相開く。時に重忠大軍を率い馳せ来たる。義盛国衡に隔てるの中、重忠門客大串の次郎国衡に相逢う。国衡の駕す所の馬は、奥州第一の駿馬(九寸)、高楯黒と号すなり。大肥満の国衡これに駕し、毎日必ず三箇度平泉の高山に馳せ登ると雖も、汗を降さざるの馬なり。而るに国衡義盛の二の箭を怖れ、重忠の大軍に驚き、道路を閣き深田に打ち入るの間、数度鞭を加うと雖も、馬敢えて上陸するに能わず。大串等いよいよ理を得て、梟首太だ速やかなり。また泰衡郎従等、金十郎・勾當八・赤田の次郎を以て大将軍と為し、根無藤の辺に城郭を構うの間、三澤安藤の四郎・飯富の源太已下猶追奔し攻戦す。凶徒更に雌伏の気無し。いよいよ烏合の群を結ぶ。根無藤と四方坂の中間に於いて、両方の進退七箇度に及ぶ。然るに以て金十郎討亡の後皆敗績す。勾當八・赤田の次郎已下生虜三十人なり。この所の合戦無為なるは、偏に三澤安藤の四郎の兵略に在るものなり。」(「吾妻鏡」同10日条)。


つづく


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