2023年2月26日日曜日

〈藤原定家の時代283〉文治6/建久元(1190)年12月1日~12月18日 頼朝、右大将拝賀式の翌々日に権大納言・右近衛大将両職を辞任 頼朝、御家人10人の衛府への任官に推挙 頼朝、京都を発つ 

 


〈藤原定家の時代282〉文治6/建久元(1190)年11月17日~11月29日 後白河、頼朝の在京奉公を要望し右近衛大将(右大将)に補任 頼朝にはその気はないが拒否できず より続く

文治6/建久元(1190)年

12月1日

・頼朝の拝賀、朝廷の先例に倣い威儀を正して行われる。行列を先導する前駈10人のうち8人は院の北面から催し遣わされている。申(さる)の一点(午後3時頃)、頼朝は最初に院御所(六条殿)に参上、中門で慶(よろこび、任官の礼)を奏聞、召しにより御前に参り、退出。馬を賜った。ついで夕刻以前閑院内裏に参り、弓場殿で慶を奏聞、召しにより、昼御座の前で後鳥羽天皇に謁している。中宮と摂政九条兼実への拝賀は省略された。

12月1日、拝賀式。先駆けには院の北面、公卿には妹の夫一条能保、能保の娘婿藤原公経を従えて臨む。

北条義時(28)、頼朝の右大将拝賀に随兵を勤む。

征夷大将軍は叶わずとも、頼朝が唯一の武家の棟梁として認定される。内乱終結、「天下落居」の到来を示す。一方、王朝国家は、再編縮小された官僚制を維持し、「公家」「寺家」権門を中心の所領基盤、交通系統の掌握(交通、社会的分業、流通の結節点としての京都の掌握)を背景に再生・存続続ける。

「両官辞退してき。もとをりふしをりふしに正二位までに位には玉はりにけり。大臣も何もにてありけれど、我心にいみじくはからい申けり。いかにもいかにも末代の将軍に有がたし。ぬけたる器量の人なり。」(「愚管抄」)。

12月3日

・在京中の源頼朝、権大納言・右近衛大将の両職を辞任、朝廷の侍大将ではない(在京して奉公することを拒否)ことを示す。頼朝は「朝の大将軍」を希望していた。2日前に右大将拝賀の儀を壮大に執り行ったばかり。

12月4日

・鎌倉に帰る準備が始まる。

「前の右大将家、絹布等を以て京中の然るべき神社仏寺に施入せしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。

「前の右大将家八幡に詣でしめ給う。」(「吾妻鏡」同5日条)。

「前の右大将家の関東御下向近々の間、御所の女房三位の局餞物等を送らる。扇百本その中に在り。これも内々の御気色に依ってこの儀に及ぶと。」(「吾妻鏡」同7日条)。

12月11日

・頼朝、仙洞(院の御所)と内裏に挨拶に参上し、成功(じょうごう、造営・造寺などの費用を朝廷に寄付し、その功として官位を得ること)による御家人10人の衛府への任官に推挙。相模武士では梶原景茂(父景時の譲り)・三浦義村(父義澄の譲り)・和田義盛・佐原義連、武蔵武士の足立遠元・比企能員、下総武士の葛西清重・千葉常秀(禍父常胤の譲り)、常陸武士の八田知重(父知家の譲り)、下野武士の小山朝政。のち、正治元年(1199)、頼家を支えた13人中6人が含まれている

「前の右大将家院内に参らしめ給い、数刻御祇候。御家人十人、成功に募り左右兵衛の尉・左右衛門の尉等に挙任せらる。これ度々の勲功の労に依って、二十人を挙げ申すべきの旨仰せ下さるる所なり。幕下頻りにこれを辞し申さると雖も、勅命再往の間、略して十人を申し任ぜらると。

   左兵衛の尉 平常秀(祖父常胤勲功の賞を譲る)

         同景茂(父景時同じく賞を譲る)

         藤原朝重(父知家同じく賞を譲る)

   右兵衛の尉 平義村(父義澄同じく賞を譲る) 同清重(勲功の賞)

   左衛門の尉 平義盛(勲功の賞) 同義連(同賞)

         藤原遠元(同賞、元前の右馬の允)

   右衛門の尉 藤原朝政(同賞、元前の右兵衛の尉) 同能員(同賞)」(「吾妻鏡」同日条)。

12月14日

・源頼朝、帰東の為京都を出発。29日、鎌倉に帰還。

12月15日

・~16,藤原定家(29)、良経の内裏直盧(じきろ)で良経と「二夜百首」を詠む

12月18日

「院より前の大将の申状二ヶ條の事を仰せらる。群盗の事、並びに新制の事等なり。」(「玉葉」同日条)。


つづく

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