2012年5月3日木曜日

チェルノブイリ被曝の母娘が語る「放射能との26年の闘い」(日経ビジネスオンライン」)

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-05-02
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日経ビジネスONLINE 「フクシマの視点」の記事
チェルノブイリ被曝の母娘が語る「放射能との26年の闘い」
放射能の被害が覆い隠され、被害者が切り捨てられてしまう危険性
藍原 寛子

以下、抜粋
(自分のためのメモ。割愛、省略あり。是非、原文を読んで下さい。アクセスランキングも高い。)

ベラルーシのゴメリ市在住のポポモア・ワレンチーナさんと、その娘のゼレンケヴィッチ・オリガさん。
オリガさんはチェルノブイリ原発事故の影響で、7歳の時に甲状腺がんの摘出手術を受けた。
ワレンチーナさんは1992年、「私と同じような思いをしている母親たちを支援したい」と、チェルノブイリ事故による病気や障害と闘う親子を支援する団体「困難の中の子どもたちへ希望を」を設立。代表として活動を続けている。

知らされなかった汚染、そして被曝
チェルノブイリ時事故当時、双子の娘は2歳半で、一家はゴメリ市に住んでいた。

原発事故後の1986年5月1日、原発から約80キロのところにある両親の家に家族で遊びに行き、みんなでジャガイモ植えなどの畑作業を手伝った。
強い風が吹く日で、作業を始めてから約3時間後、突然、夫が鼻血を出し、ワレンチーナさんも気分が悪くなった
その日、病院で働いていたワレンチーナさんの母親が勤め先から呼び出され、顔色を変えて帰ってきた。
その夜にワレンチーナさん一家はゴメリ市の自宅に帰ったが、翌日、マスコミがチェルノブイリ原発事故について報じたことから、初めて原発事故を知った

「情報は全く不十分で、事故の大きさ、人への影響が発表されることはなかった
住民の安全基準や方針も示されず、ただ言われたことは、外にいる時間を短くすること、帽子をかぶること、外から戻ったらシャワーを浴びて衛生面に気を付けるようにということだった。
学校や幼稚園では屋外活動を最小限にし、やがて測定器も売られるようになった」

健康への影響が懸念されたことから、ワレンチーナさんの職場は、5月半ばから子どもたちと3カ月間の一時保養の機会を設けた。
ゴメリ市にある多くの企業が、同様に母子を保養に行かせたという。

ところが、戻ってきてから、一家の生活が大きく変わることはなかったという。
健康対策として唯一できる方法がその土地から避難することだったが、「多くの他の家族と同じように、私たちの家族もどこにも逃げるところはなかった」(ワレンチーナさん)と当時を振り返る。

被曝予防対策を一から学んだと言う。
 「森のイチゴや絞りたての牛乳を飲まないことなど、できることはすぐに実践した。それでも汚染の少ない野菜や食品を買うための補助金などはなかった」。
収入や雇用条件が良かったり、避難できる場所があるなど、経済的、社会的に恵まれた人がより良い健康を得られるというような現状について、ワレンチーナさんは「それはまるで、強いものが残るというような恐ろしいサバイバルショーのような状況だった」

その後、1年に1回、当時働いていた職場が「保養券」を発行してくれて、ラトビアやリトアニア、グルジアに保養することができた。
チェルノブイリ周辺地域の住民の多くが、ゴメリやミンスクなどに避難し、バルト海北部に行った人もいたという。
汚染された村や町は人々が避難していったため、次々と地図から消えて行った

娘に異変―突然の入院と手術
毎年学校で行われていた健康診断で、「甲状腺にしこりがある」と診断されたのだ。
1990年、事故から4年後のことだった。
ワレンチーナさんら両親にとっては寝耳に水だったが、考えてみると、オリガさんは病気がちになっていて、その頃は体重も落ち、学校から帰ると疲れてしまって横になりがちだったことが浮かんだ。

 「それ以来、オリガの健康に対して深刻に考えるようになった」とワレンチーナさん。

定期的に血液検査を受けていたが、翌年の1991年、保養所(サナトリウム)の医師がオリガさんの異変に気付く。
「早く甲状腺の検査を受けるように」との医師のアドバイスで、翌日、救急車でミンスクの病院に入院。医師の診断は「リンパ節転移を伴う甲状腺がん」という衝撃的な内容だった。
その翌日、オリガさんの甲状腺の摘出手術が行われた。7歳だった。
その2年後にもイタリアで手術を受けて完全に甲状腺を摘出している。

その後、肺への転移、視力低下、心臓の問題や頭痛もあり、ホルモン剤を服用しながら、現在も定期的な治療が続いている。

病気に苦しむ同じ家族を支え合いたい
病気の子どもと親を支える団体「困難の中の子どもたちへ希望を」が1992年4月に設立された。会員の多くが甲状腺がんの子どもとその親だった。

現在の会員は病気、障害児の子どもたちなど373人。212人が17歳までの子どもで、そのうち50人は、親が子どもだったときからの会員だ。親だけでなく、子どもの世代にも影響が及んでいることが懸念されている。残る161人は18歳以上。
設立以降、154人の子どもたちが神経芽細胞腫、肝臓がん、甲状腺がんなどと闘い、亡くなっていった

被曝しない努力と保養が有効
現在、ベラルーシでは1年に1回、国の計画により学校で甲状腺検査が行われており、そのための専門医もいる。しかしそれらの国の制度やプログラムがあるにもかかわらず、甲状腺がんの問題が起きることについてワレンチーナさんは、支援団体の子どもたちの生活の様子などから

「汚染された土地に問題があるのではないか。
汚染された土地に住み、汚染された土地で作った作物を食べることと明確に関連がある。
自分で作った食べ物の多くは検査されていない。
汚染度は低いかもしれないが、汚染されたものを食べ続けることで影響があり、四半世紀以上過ぎてもチェルノブイリ事故の影響はある

と話す。
(以下、大幅に省略)

放射能に過剰に反応する人たちを「放射脳」と揶揄する「脳天気」な方もいるようだが、これは自分で判断して、自分の生活スタイルを作るしかないのかも知れない。
一方で、経済面などさまざまな理由で、生活を変えることができない人たちも大勢いることに思いを致さなければならない。

事故の影響をなるべく少なく評価したい人たちが、深遠なる配慮のもとにいろんな画策をしている。
この面では今なお続く水俣病から学ぶことが多い。


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