承平6年(936)
この年
・撰国史所の別当として大納言兼近衛大将藤原恒佐(つねすけ、宇多朝の左大臣良世の七男)・中納言平伊望が任命される。左少弁兼文章博士伊予介大江朝綱も撰国史所に配属される。
しかし、この修史の新しい企ては、天慶の大乱などに妨げられ朱雀朝の次代にまで持ち越される。
『新国史』40巻(散逸、宇多即位から醍醐の末年までの編年史とみなされる)は、撰国史所別当の朝綱の没年である天徳元年(957)までには纏められていたと考えられる。
しかし、この史書も『後撰和歌集』と同様に、勅撰の書として完成のうえ天皇への奏進というところまでゆかなかった。
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・この年、呉越国の商人が、国王銭鏐(せんりゆう)の代理として朱雀天皇・左大臣藤原忠平・右大臣藤原仲平(忠平の兄)に進物を持参。
忠平らは、慣例に従って天皇の分は返却し、自分と仲平の分は受け取り、商人に返書を持たせた。呉越国を正式な国家とは認めないものの、通商は行うとの意思を示した。
呉越国は、杭州や明州など、古くから貿易が盛んな地域で、最澄も訪れた仏教の聖地天台山を有する江南の国。
後には、国王銭弘俶(せんこうしゆく)の依頼を受けて、延暦寺から経典を届ける使者も送られることになる。
現在、阿育王塔(仏教を篤く信仰したインド・マウリヤ朝のアショカ王に倣って製作された塔)の完型品やその破片が日本の各所に存在するが、それらは仏教を深く信仰した呉越王が経典の代わりに、伝えた物と考えられている。
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・後唐が滅び、後晋が建国し、契丹に燕雲十六州を割譲。
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・高麗が、後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一。
高麗は建国するとすぐに二度にわたり牒状を送ってくるが、朝廷は大宰府の返牒を与えて帰国させる。
外交を求めてきた高麗に対し、朝廷が公式外交を拒絶したものであるが、宋とも国使派遣・受け入れという形での公式外交は行わず、商人や僧侶を通じた交流のみであったことを考えると、この頃の朝廷は外交全般に対して消極的であったといえる。
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3月
・前伊予掾純友藤原純友、「海賊追捕宣旨」を与えられ、伊予国警固使に起用される。
純友は武装集団を率いて伊予に下向。
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春
・平貞盛、亡父平国香の1周忌を終えて帰京するにあたり、母の身上を案じ、仇敵ではないという理由により平将門と協力体制を提唱(『将門記』)。
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5月下旬
・紀淑人(きのとしひと、老齢の文人貴族)を伊予守兼追捕南海道使に任じ追捕にあたらせる。
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6月
・紀淑人の寛大な処遇により承平南海賊2,500余人全員が一斉投降。
紀淑人は、この勲功によって従四位下に昇進。
「田疇(でんちゆう)を班給し、種子を下行(げぎよう)す」(『扶桑略記』承平6年夏6月条)。
衛府舎人たちが負名となって国衙支配に従うことになったことを示す。
(罪人として処断しない代わりに、国衙に従うことを約束させる政治的妥協)
瀬戸内沿海諸国で最後まで体制転換を拒絶していた衛府舎人は、負名体制を受け入れた。
「前(さき)の掾藤(原)純友、去る承平六年、海賊を追捕すべきの由、宣旨を蒙る。
(前伊予掾藤原純友は去る承平六年に海賊を追捕せよという宣旨を受けた)」
(『本朝世紀』天慶2年(939)12月21日条)。
『本朝世紀』:
久安6年(1150)鳥羽院の命を受けて藤原通憲が編集した、『三代実録』の後を継ぐ国史。大部分は散逸。
『日本紀略』には、
「南海賊徒首藤原純友、党を結び、伊予国日振島に屯聚し、千余艘を設け、官物・私財を抄却(しようごう)す。」(『日本紀略』承平6年6月条)
とあり、承平6年の時から純友が海賊の首領であったかのように書かれている。
一方、純友が反乱を起こした段階での伊予国の解(上申文書)には(『本朝世紀』天慶2年12月条)には、上記の様に承平6年の段階では、海賊の頭目ではなく、逆に海賊を鎮圧する命令書(追捕宣旨)を受け取っていたとある。
『本朝世紀』は、『外記日記』(太政官で文書の作成などに当たっていた外記が職務上つけた日記)を素材にした国史であり、直接伊予国の解に依拠した可能性が高く正確である。
承平年間の純友は、海賊鎮圧側にいた。
承平6年の海賊は伊予守紀淑人の仁政により平和裡に鎮圧されたが、この時以来、純友と海賊の間に主従関係が築かれた可能性が考えられる。
藤原純友:
天慶2年12月、反乱を起こしたときの肩書きは前伊予掾、六位の失業官人。
父は摂政太政大臣藤原忠平の従兄弟、良範(よしのり)で、従五位下大宰少弐どまりのまま壮年で没し、純友はよるべなき身となる。
父良範の従兄弟元名(もとな)の履歴から、純友は伊予守元名の推挙によって伊予掾になり、承平2年(932)正月~承平5年(935)12月の4年間在任したと推定される。
元名が純友を掾に抜擢したのは、不遇の一門への憐れみだけでなく、純友の武芸を見込んでのことであった。
父良範の少弐在任中は、新羅海賊来襲への危機感から沿海防衛に力を注いでいた時期であり、若き日の純友は大宰府で武芸の錬磨に励んでいたものと思われる。
元名は、海賊被害に悩む伊予国に赴任する際、純友の武芸を見込んで掾に抜擢。純友は元名のもとで海賊追捕の実績をあげ、海賊たちの間にも名が知れ渡り、忠平ら政府首脳からも一定の評価を得たと思われる。
元名の任期滴了とともに京に帰った純友は、叙位・除目に期待をかけつつ無為の日々を過ごしていた。
天慶2年(939)12月、純友は摂津国須岐駅(すさえき)に備前介藤原子高(さねたか)を襲ったが、その直後、政府はあわてて承平南海賊のとき勲功を申請していた人々を任官し、純友を従五位下に除した。
承平南海賊平定に貢献した純友らの勲功申請は、政府によって握りつぶされていた。
淑人より2ヶ月前に伊予に入っていた純友は、旧知の仲の海賊勢力(衛府舎人たち)に降服するよう説得し、海賊集団は純友を信頼して一斉に投降したと考えられる。
淑人は純友の説得工作の成果を文筆のカで横取りしただけであり、純友こそが海賊平定の最高殊勲者だった。
海賊平定後、純友は伊予に土着した。
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