2012年9月13日木曜日

昭和17年(1942)8月 ガダルカナル 一木支隊第1梯団、殆ど全滅。

東京 江戸城(皇居)東御苑
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昭和17年(1942)
8月14日
・大本営はそれまでのガダルカナルを巡る「総合戦果」を発表
甲巡九隻、乙巡四隻、駆逐艦九隻、潜水艦三隻、輸送船一〇隻の撃沈となっている。
25航戦と第8艦隊の戦果報告を合計したもので、事実との差異は無視。
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8月14日
・部落会・町内会の会長を翼賛会の世話役に、隣保班長と隣組長を世話人にすることを決定。
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8月15日
麻生吉隈炭鉱で朝鮮人坑夫暴動、3日間
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8月15日
・横5特高橋中隊113人、ラバウル発。
16日夜、タサファロング(ガダルカナル島ルンダ岬西17km)上陸。
17日夕方、ガダルカナル島設営隊主力と合流。
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8月15日
・アレキサンダー将軍、中東方面の指揮を取る
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8月15日
・「バスファインダー」(航路確認)部隊、英本土に創設
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8月16日
・午前5時、第17軍一木支隊(一木清直大佐)第1梯団916人、駆逐艦6隻に分乗してトラック島発。
第2梯団は低速の輸送船で同時に出港。
18日午後9時、ガダルカナル島タイボ岬西(飛行場東40km、米軍泊地ルンガ岬東35km)上陸。
在ガ島守備隊との連絡もとらず、第2梯団を待つこともなく部隊を西進させる。

一木大佐は、盧溝橋事件当時の大隊長(北支那駐屯第1聯隊第3大隊長)。
伝統的「白兵夜襲」をもってすれば、ガ島奪還など簡単と信じていたので、各人の携行する小銃弾は250発、糧食は7日分のみ。大隊砲小隊としては歩兵砲2門のみ、戦車には無力。
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8月17日
・連合艦隊、司令部をトラック島に移すため、旗艦「大和」(山本五十六司令長官座乗)、柱島発。
28日トラック着。
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8月17日
・米海兵隊小部隊、マキン島奇襲、自主撤退、日本守備隊全滅
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8月17日
・米第8空軍、欧州で初めて単独空襲(B-17、6機)
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8月17日
・英ソ共同声明。
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8月18日
南海支隊、パサブア附近に上陸。糧食16日分を背負いオーエン・スタンレー山系に踏み込む

ココダ~イスラバ~エフオギと所在のオーストラリア軍と小戦闘を重ね、ポートモレスビー目指しオーエン・スタンレー山系に踏み入る。
9月16日、第1線がイオリパイワを占領し、先きは山系が低い樹海となり海岸に至り、ポートモレスビーの灯が遥かに望見される地点で、支隊はスタンレー山系以北に集結、つまり、今迄来た道を引き返す決定がなされる。
1日定量を1/4に減らして食い延ばしてきたが、糧株前送が間に合わず、これ以上の前進は全員の餓死を意味することになる。
退却に移る南海支隊に対し、マッカーサー指揮のアメリカ・オーストラリア連合軍は急追撃。ブナへの退却は、飢餓と敵の追撃による地獄の様相を呈する。
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8月18日
・昼頃、低速の一木支隊第2梯団船団は、横5特(高橋中隊欠)を乗せてグァムから出発した金竜丸と、それを護衛する第24駆逐隊(「海風」「江風」「涼風、17日二水戦に増加発令)及び哨戒艇2隻と洋上合流。
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8月19日
・午前2時、ガダルカナル先遣隊(一木支隊第1梯団)、ベレンデ川到着。
午後2時、尖兵小隊34、包囲全滅
午後10時30分、一木支隊、イル河右岸100mに進出。
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8月19日
・百武第17軍司令官、歩兵第35旅団長川口清健少将にガダルカナル、ツラギ奪回命令。
歩124連隊・一木支隊・海軍陸戦隊と合せ「川口支隊」とする。

翌20日、川口少将は飛行機で部隊集結地トラックへ飛ぶ。
歩兵第35旅団は輪送船「浅香山丸」「佐渡丸」で16日朝パラオを出発、20日トラック着。
歩兵第35旅団は旅団とはいうものの歩兵第114連隊が欠けていて、旅団司令部と歩兵第124連隊(同朋之助大佐)だけという、1個連隊に連隊長と旅団長がいる変則編成の支隊
第114連隊は、シンガポールで牟田口兵団に編入。
第124連隊はダパオで待機中に初年兵を受領し、定員を約600名超過する部隊になる。
編組は、連隊本部・3個大隊、歩兵砲中隊、通信隊、速射砲中隊1個、機関銃中隊1個、歩兵大隊は各4個中隊。
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8月19日
・戦時災害保護法、朝鮮・台湾・樺太施行
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8月19日
・バウルス将軍、第6軍にスターリングラード奪取を命じる
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8月19日
・~10/10。ソ連『シニャビノ』作戦(レニングラードの包囲網突破作戦)
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8月19日
・連合軍『ジュビリー(祝祭)』作戦。ディエップ港(北仏)急襲、失敗。6千人のうち半数が死傷。
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8月20日
・日米外交官交換船「浅間丸」「コンテ・ベルデ号」(伊)、横浜着。
野村・来栖両大使、坂西志保、中野五郎、森恭三、荒垣秀雄、平岡養一ら。

6月10日頃、実松譲中佐は、ウエスト・ヴァー・ジニア州のホテルでの半年間の軟禁を解かれ、野村・来栖両大使、大使館員、横山武官、邦人留学生、商社駐在員、新聞特派員一行と共にハドソン河碇泊中の交換船(米政府がチャータノーしたスエーデン船)「グリップスホルム」号に乗む。
これは、ニューヨーク出港後、喜望峰を廻り、アフリカ東岸ポルトガル領ロレンソマルケスで、迎えに来た「浅間丸」「コンテ・ヴェルデ」号と落ち合い、日米両国の抑留者を交換。
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8月20日
・米軍航空隊、ガダルカナル島飛行場に進出、米艦隊と協同。
第11航空艦隊(塚原二四三中将)の攻撃目標は米軍船団から航空基地に移る。
8月未、日本側使用可能航空機は零戦26・陸攻10。
同時期ガダルカナル島の米軍機は戦闘機30・爆撃機20・大型機10。
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8月20日
・ガダルカナル、午前10時、一木支隊長が攻撃命令下達。
20日午後6時出発、夜半から「行動即捜索即戦闘」の拙速主義をもって一挙に飛行場奪取する計画。
21日午前3時、ガダルカナル島奪回の一木支隊第1梯団900、イル河口戦闘開始。
午前9時、米戦車・飛行機による反撃で全滅。午後3時、一木大佐自決。一木支隊第1梯団、殆ど全滅。

(詳細)
午後6時、支隊はレンゴを出発。
8時、7Km進んでテナル川に達す。逃亡しかけた道案内の原住民を射殺するとイル川方面から信号弾上がるが、イル川に前進。
この時、米軍第1海兵師団は、1個大隊を予備とし、3個野戦砲兵大隊の掩護の下に、4個歩兵大隊を並列してルンガ岬を保持。
一木支隊が接近しつつある方面は、イル川西岸に沿って奥地へと強固な抵抗線を伸している。
10時半、尖兵がイル川東岸に近づき始めて敵と接触、尖兵は後退する米兵を追尾し東岸に達し停止。
一木支隊長は蔵本大隊長と尖兵中隊の位置に進出し、突撃を命じるが敵の火力は突入を許さない。

21日未明、河口近くの砂州から突入。大部分が砂州前後で火力に捕捉され死屍累々となる。一木支隊長は予備の機関銃中隊なども投入するが形勢逆転せず。
突撃が挫折した時点で、後方より米軍戦車による強圧が始り、日本兵を河口砂州へ追い立てる。支隊の戦死777・戦傷約30。生存者128。

米公刊戦史による21日牛後の戦況:
12時30分迄に2個中隊が2千ヤード前進、右翼の1個中隊が日本軍後方に到着。
午後2時、包囲網が完成し攻撃開始。日本兵は海中に逃れ、奥地へ遁走する者は迂回した中隊に阻まれ、東方へ走る者は戦闘機に掃射される。日没前に戦闘を終らせる為に、歩兵に支援された軽戦車1個小隊が砂洲を渡り、37ミリ砲を射ちまくる。
戦闘は5時頃終る。
日本軍戦死約800、生存者は130。米軍海兵隊35名戦死・負傷175。
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8月21日
・トラック島に第4特設海軍病院新設
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8月21日
・ソ連政府・党中央委員会、解放諸地区の緊急経済復興措置を決定。
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