2012年9月24日月曜日

昭和17年(1942)9月 「横浜事件」の発端 ガダルカナル島川口支隊第1次総攻撃失敗。 迫り来る飢餓。

東京 江戸城(皇居)二の丸雑木林
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昭和17年(1942)
9月9日
・イ25号潜水艦搭載機1機がオレゴン州の山間部を空襲、(9/29に第2回)
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9月9日
・海軍依託学生生徒令
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9月9日
・大政翼賛会、国民錬成要綱を決定
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9月10日
・山西産業株式会社新社長に河本大作予備役大佐就任
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9月10日
・鳥取地震、市内各所で出火、死者1,083人
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9月10日
・イギリス軍、マダガスカル攻略再開
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9月11日
「横浜事件」の発端。
世界経済調査会主事川田寿・定子夫妻、神奈川県特高に検挙

昭和16年1月、アメリカに留学(労働問題研究)から帰国。当局は帰国者の中にアメリカのスパイ或いはアメリカ共産党を通じて国際共産党の指令を受けている者があるのではないかと疑惑を持ち、船会社の人たちに、乗船者中にアメリカで左翼運動をしでいた者を指名させる。川田夫妻の名前が挙げられ、検挙となる。
令状には「日本共産党再建運動を主謀したかどにより逮捕する」との語句がある(川田夫人証言)。
取調べは、スパイ建議・国際共産党関係に終始し、関係者として川田の実兄、アメリカ時代の友人たち、世界経済調査会の関口、諸井、満鉄東京支社調査部員高橋善雄などが召喚されたり検挙される。

川田夫妻に対する取調べは峻烈を極めるが、当局の狙うスパイ嫌疑・国際共産党関係の事実は出ず、川田が慶応大学在学中、学生運動に関係し、昭和5年アメリカに留学、以来15年迄の10年間、労働問題研究に専心し、「米国に於ける労働運動に参画し、亦邦人労働者の組織啓慶に従事したる外、平和・戦争反対運動を支援し、日本の主戦政策を批判し、海軍水兵に対する反戦活動、日本勤労者に対する反戦宣伝をなした」(川田寿口述書)との嫌疑で起訴、昭和20年7月25日、川田は懲役3年執行猶予4年、定子夫人は懲役1年執行猶予3年の判決。

川田夫妻の場合、10年間の日本での空白あり、アメリカでの活動だけが問題とされるが、関係者として召喚された高橋善雄が、関口・諸井はすぐ放免されたにも拘らず、かつて一高在学中に学生運動の経験があったことから検挙され、ここから横浜事件は拡大してゆく。
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9月11日
・午後10時30、第2師団歩兵第4連隊(青葉支隊)第3大隊(佐々木少佐)、ガダルカナル西北角カミンボ上陸。第17軍松本参謀も上陸。舟艇機動部隊の遅れた残部もこの時、上陸。

この増援は川口支隊の攻撃開始には間に合わないが、万一川田支隊の攻撃が失敗した場合、タイポ岬付近を米軍が占拠している推定から、爾後の連絡拠点としてガダルカナル西北地域を確保しておく必要があると判断されカミンボ上陸となる。

またこの増援追送と前後して、8日夜、連合艦隊司令部は、ガダルカナル方面作戦予備兵カとして、第2師団の一部兵員をバタビアから軽巡3隻でラバウルに急送すると第17軍に連絡。
第17軍司令部はこれを受けて、歩兵連隊を基幹とする可及的多数の兵員、なし得れば師団司令部を含む輸送を要望し、その結果、第16戦隊(「五十鈴」「鬼怒」「名取」3艦)によって、歩兵2個大隊基幹の兵員約1500が急送される事になる。

第17軍司令部は兵力増援と並んで、10日、松本参謀を作戦指導に派遣する事を決める。
この頃、既に、田中航空主任参謀、家村船舶主任参謀が着任しており、大本営派遣の井本・林両参謀、山内情報参謀の援助があり、山本後方主任参謀も近々に派遣されることになっており、首席参謀松本中佐のガダルカナル派遣が決まる。
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9月11日
・アイルランド、アメリカ進駐軍撤退を要求して暴動。
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9月12日
・ニューギニア、南海支隊、イオリバイワ占領。
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9月12日
・基地航空隊がガダルカナル飛行場に侵攻。
3水戦司令官橋本少将指揮の外南洋方面奇襲隊、巡洋艦「川内」1・駆逐艦3をもってルンガ湾に突入、飛行場を攻撃。駆逐艦1が兵器弾薬をカミンボに揚陸。
ガダルカナル内の川口支隊の攻撃に呼応する陸海軍協同作戦であるが、川口支隊の攻撃失敗で齟齬をきたす。
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9月12日
・イギリス『ブッチャーアンドボルト(殺しと逃走)』作戦(ポルタン・ブサン港(仏)へのコマンド作戦) 
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9月13日
・ソ連領内、中国特別旅党大会、金日成副書記長選任。
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9月13日
午前9時5分、ガダルカナル島川口支隊第1次総攻撃失敗
半数失う。国生大隊長、第2線陣地前で戦死。田村大隊黒木中隊、飛行場南東第一海兵団司令部付近まで進出。戦死478・戦傷396。

8日薄暮より各隊行動開始を予定。
この日午前11時、川口支隊長がテテレ出発する前に、前夜敵が背後に上陸したのを知る。
しかし、これを放置したまま行動開始する。
午後1時頃レンゴ(テテレ西8km)着。ここで磁針偏差のある事を知る。
従って、度々針路修正を行いながらの前進で予想外の時間を費やす。

12日午前10時半頃、右翼隊(熊大隊)から「本夜夜襲決行」の報告。
同じ頃、左翼隊(岡部隊)から「所命ノ如ク歩兵二中隊ヲ以テ夜襲ヲ決行ス」と報告。
砲兵隊から「正午頃攻撃準備を完了スル筈」と報告。
午後3時半、左翼隊から再び計画通りの攻撃を行うとの報告。
支隊長は予定通りの夜襲実施を命令し、各隊は攻撃準備位置へ分進。

○各隊別の動き
熊大隊(一木支隊第1梯団生残りと第2梯団で歩兵2中隊・連隊砲1中隊(4門)・速射砲2中隊(各4門)と工兵小隊から成る混成大隊、大隊長は一木支隊本部附水野少佐)。
コリ岬付近まで最も海岸に近い進路を西進し、支隊主力の前進と迂回を掩護。
9日夜8時半頃、コリ岬付近から南下迂回。
10日昼頃、進路を誤って北西進して来た青葉大隊と支隊司令部に遭遇。
大隊は西進を続け、11日午前3時頃、テナル川(東川)上流約55kmと思われるあたりで大休止。
この日午後2時頃、大隊の歩暗線前方に敵の斥候が出没(大隊の所在は偵知される)。
夕方4時、前進再開、12日天明の頃から北進に転じる。
午前10時頃、攻撃準備位置の中川上流約8km付近と思われる地点に到達(実際には、西進距離が足りず、予定地点から東方へ偏っている)。
12日正午、攻撃決行支隊命令受領。斥候を出すが、敵陣の位置を確認出来ず(位置が東に偏っている為)。
大隊は、携行した糧食を全部炊いて食事をとり、午後6時、密林の中を攻撃前進に移る。
しかし、夜闇と密林に阻まれて歩度が伸びず、突入予定時刻の午後8時になっても敵前進出を果せず。主力中央隊の方向にも攻撃開始の気配が感じられなかったという。
暗中模索の前進を続けているうちに、13日天明となる。敵と接触出来ずに終る。

中央隊の右第1線攻撃部隊である第3大隊(渡辺中佐)は、予定を変更してパレスマ川河口から南下、草原とジャングル地帯に潜入し、8日夜9時半過ぎ、パレスマ河口南西約10kmに達する。
10日午前5時、ジャングル内の困難な前進を開始、午後4時頃、飛行場南東約13kmと推定される地点に達す。
11日午前4時過ぎ、前進開始。
真夜中にテナル川(東川)上流に達し、12日午後8時、どうにか攻撃準備位置に到達(第3大隊は中央隊の中では行軍距離が短い)。
重火器部隊の進出はかなり遅れているが、これを待たずに攻撃前進に移る。地形は錯雑し、暗夜の前進と部隊掌握に難渋。
午後11時頃、敵の警戒陣地らしい鉄条網に衝突し、それを突破した頃には夜明けとなる。
敵の熾烈な砲撃が始り、第9、11中隊長が戦死。
攻撃準備位置にまで後退。

中央隊左第1線攻撃部隊である第1大隊(国生少佐)、8日夜、コリ岬東方約1kmにあり、午後9時、岬南西方の幅約1500mの発見を通過し、9日午前3時、コリ岬南方約1kmに達す。
9日午後6時、ジャングル内を前進。
12日午前8時頃、攻撃準備位置の前方約4km付近とおぼしき地点に達す。
8時過ぎ、高地のジャングルを啓開中、敵監視兵から射撃を受け、応戦・撃退するが、日本軍接近を敵に知られる。
この高地は飛行場南方にある、日本軍があとで「ムカデ高地」と名づけた高地。国生大隊長は1中隊でこの高地を占領させ、大隊主力は高地を迂回西進。
12日午後3時半、ルンガ川東方約500mの攻撃準備位置に達し、午後4時攻撃準備を完了。
日没後、前方の草原を通過、ルンガ川沿いに前進。
機を逸することを恐れ、重火器部隊を待たずルンガ川沿いに北進し、深い急流を徒渉し前進していると、右第1線部隊(第3大隊)の一部が混入。混乱を避ける為、部隊をルンガ川左岸に集結させる。
時刻は既に13日午前2時、突入予定時刻はとっくに過ぎ、夜襲を中止し、午前3時頃、攻撃準備位置に復帰

第2線攻撃部隊である青葉大隊(田村少佐)は、9日未明レンゴ付近から南下、ナリムビュー川沿いにジャングル迂回を開始。
ジャングル内の難行軍が続き、10日昼頃、左第1線の第1大隊と会合、その後方を進み、12日午後9時頃、攻撃準備位置に到達。
第1線との連絡と敵情把握に努めるが、それが叶わず、虚しく天明を迎える

砲兵隊はテナル(東川)右岸にあり、12日午後8時に予定通り砲撃開始するも、それを合図に突入開始し得る部隊はない

左翼隊(岡部隊、舟艇機動により支離滅裂状況で上陸)は、7日夜迄に掌握した兵力は約650。
8日正午、マルポポ(西北海岸)発、敵機の攻撃と地形の嶮しさに苦しみながら、午後2時カミンポ着、そこに上陸していた連隊通信隊を吸収し、午後4時ピサレ着、10日朝まで同地で前進準備。
10日午後6時ポネギ川(コカンボナから北西約7km)に達し大休止、同夜半出発、海軍守備隊の位置(コカンボナのやや東)へ向い、11日朝5時40分頃到着、岡連隊長は門前大佐(元11設営隊長)と会い情報交換。
12日午前2時(予定では11日日没時)、東へ向って出発。
12日午前10時半頃、総攻撃に間に合わないが2個中隊をもって夜襲決行と支隊長に報告。
午後8時、砲兵隊の砲撃開始を迄か東方に聞くが、目的地に到達しないうちに、天明を迎える。

12日夜の時点で、支隊司令部は各隊とは連絡がとれていなく、司令部自身もルンガ川に入り前進するも、下流になるにしたがい水深・流速が増し前進できず、右岸の密林を模索するうちに13日天明を向かえる。

川口支隊長は、13日午前3時50分、13日夜の夜襲再興を決意、各隊に命令。
しかし、食糧が尽きかけているなど攻撃準備は困難な状況。
岡大佐は、13日夕方には舟艇機動部隊残部と青葉支隊第3大隊が到着するので、これを待つよう意見具申するが容れられず。
支隊主力の食糧が13~14日には尽きるため、夜襲を急ぐ必要がある。

○13日夜襲(再度の夜襲)の各隊別の動き
右翼隊(旧一木支隊)は敵情と自隊進路をほぼ把握して、13日午後5時、中川上流約8kmを縦隊で出発。
午後8時頃、中川左岸の草原地帯に出ようとしたとき、右前方約100mから軽機の射撃を受ける。その時草原に進出している大隊本部と第1中隊指揮班だけで突入し敵火線を撃退。
水野大隊長は進出の遅れている重火器部隊に追及を命じ、自ら第1、2中隊を率い海岸線へ進出しようとした時、左方森林内から射撃を受け、間もなく鉄条網で防護された陣地に衝突、攻撃は頓挫し、大隊長水野少佐は戦死。指揮官を失い、右翼隊は攻撃続行の気力を失う。

第1大隊(中央隊左第1線攻撃部隊、国生少佐)、13日午後3時、攻撃準備位置を出発。
予定の午後8時より早く夜襲開始。目標の飛行場北西の三五帯地の前に、ムカデ高地西側に鉄条網を施した2条の陣地があり、これを突破しなければならない。
国生工大隊長は自刃を振るって陣頭に立ち、敵陣地第1線を抜くが、第2線は突破出来ず。
日本軍得意の夜襲白兵も濃密な火網には通用できず、大隊長以下多数の戦死者が出て戦力激減。砲爆撃は激しさを加え、せっかく抜いた陣地も保持できず撤退。
米側資料によると、第1大隊の攻撃により、米軍挺進大隊2個中隊が後退し、師団予備の1個大隊が午前2時頃投入されたという。

第2線攻撃部隊である青葉大隊(田村大隊)は、午後4時、第1線左右両大隊(第1、3大隊)の中央後方の攻撃準備位置につき、薄暮を利して更に間合を詰める。
午後8時、敵の砲火は第1線両大隊に集中し、次第に青葉大隊にまで着弾。
大隊長田村少佐は支隊長命令を待たず、独自判断で第1線中隊(第5、7中隊)に攻撃前進を命令。左第1線の第5中隊は第1線陣地を突破、更に突撃し第2線陣地(ムカデ高地陣地線)をも奪取するが、小隊長以下損害が多く突進が鈍る。
中隊長は第1線小隊残兵を集め、予備隊(1個小隊)を加え突進を続行させるが、中隊長が倒れ頓挫。右第1線の第7中隊も、敵陣に突入、ムカデ高地を越えて北東側地域に進出するが、天明を迎えるに及び前進困難となる。

予備の第6中隊は第5中隊を超越して敵陣に近迫。
戦線は全く混乱し、日本軍の後方で米軍が電話連絡をとる声が聞えるほどという。
第6中隊は、中隊長が負傷、兵力の半数が損害を受けるが、中隊長は残兵を掌握して突入を続行、ムカデ高地を越え、天明頃、飛行場南東附近に進出。
付近に敵の幕舎群(第1海兵師団司令部と工兵部隊の宿営地)があり、第6中隊はこれを蹂躙突破しようとするが、敵の防禦火力は激烈で、遂に阻止される。
この夜、米軍はこの戦脚で1夜に1992発の10糎砲弾を撃ち、1600ヤードの至近距離射撃を行なったという。
田村大隊長は天明となっても攻撃続行しようとするが、猛烈な砲火の下、部下中隊掌握は困難を極める。
支隊長の攻撃中止の命令は、14日昼過ぎに伝わり、分散した残兵が集結地に集まるのに2日を要す。

左翼隊では、岡大佐が歩兵2個中隊・機関銃中隊を率い、13日午後4時15分、マタニカウ川の線を出発、「トラ高地」(ルンガ川とマタニカウ川の中間、アクステン山の北東、海岸に近い)へ向って前進(この時刻の出発では発電所の南西約1kmの高地端に進出しての夜襲決行は無理)。
8時15分トラ高地南端の草原に進出する頃、東方から中央隊の攻撃の音を聞く。
8時40分、左翼隊長岡大佐は舞鶴大隊(歩兵124連隊第2大隊)に対し、西川(ルンガ川の西、グアムの東側を流れる川)南東の高射砲陣地の攻撃を命じ、青葉大隊(歩兵第4連隊第3大隊、11日夜カミンポ上陸)に対し、海岸道方向から西川付近を攻撃するよう命令。
舞鶴大隊の出発は午後9時30分といい、夜襲予定時刻は過ぎており、中央隊・右翼隊と呼応する気が全くないように見える。
明け方3時半頃、同大隊がトラ高地北端に達した時、前方から猛射を受ける。
大隊長は第1線中隊に攻撃を命じ、敵陣地の一角にとりつくが、次第に集中砲火を浴び、前進困難となり、天明を迎え、左翼隊命令により後退。青葉大隊は1個中隊で西川方向の敵情捜索にあたらせ、主力は海岸道を進む。マタニカウ川右岸に進出して前進すると、尖兵が敵と遭遇、交戦。
既に14日朝4時30分頃。米軍は正面の小川に沿って展開し、海上の舟艇と連繋して挟撃の形で猛射を加え、青葉大隊の前進を阻む。

中央隊右第1線攻撃部隊の第3大隊(渡辺)は、心臆して出てゆかず(足を痛めたとの理由で副官と共にジャングルに潜んだまま)。
この大隊は、前夜の夜襲では敵と接触した唯一の部隊であり、夜が明けると(13日)、猛烈な砲撃を受け、第9、11中隊長を失っている。

○アメリカ側から見れば。
飛行場の手前に丘(「ムカデ高地」)があり、その丘を越えればすぐ飛行場である。
丘を守備するのは、メリット・エドソン中佐の第1襲撃大隊とチャールス・ミラー少佐の第1降下大隊。
バンデグリフト少将は丘の後方に司令部のテントを張り、全般の指揮をとる。
この丘に対し、国生・田村・渡辺大佐の隊が突入。
田村少佐は、バンデグリフト少将の司令部近くまで進出。
14日朝、丘全前面には日本兵の死体が折り重なり「血染めの丘」と呼ばれる。エドソン大隊だけで戦死40・戦傷103。川口支隊の損害は、戦死487・戦傷396。

川口支隊長は、14日午前11日前には総攻撃失敗を認めざるを得なくなり、11時5分、一時離脱してルンガ左岸に兵力を集結整頓し、後図を策する決心をする。

しかし、川口支隊には飢餓の危険が迫り始める。
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9月13日
・イギリス『アグリーメント(一致)』作戦(トブルク(リビア)の枢軸国側の港湾施設および補給倉庫への海陸両面からの攻撃作戦) 
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・イギリス『ブルーボルト(矢車菊)』作戦(軍艦によるペルピニャン(仏)近くの海岸からの英人捕虜奪回作戦) 
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9月13日
・スターリングラードでドイツ軍「最終」攻勢
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