2012年9月21日金曜日

1756年(宝暦6)~1757年(宝暦7) 宝暦事件 宝暦の「横田切れ」 【モーツアルト0~1歳】

東京 江戸城(皇居)東御苑
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1756年(宝暦6)
12月
宝暦事件。
この月、京都町奉行所は竹内式部を呼び出し取調べを行ったが、結果は無実

宝暦事件は、朱子学と神道を統一した垂加神道を唱えた山崎闇斎を祖とする崎門派の流れを汲む竹内式部が、権大納言徳大寺公城(きみき)、少納言西洞院時名(ときな)など、中下級の少壮公卿たらに思想的影響を与えたことに始まる。
式部の弟子は諸国で700~800人に及んだといわれる。
これに対して、全国の神社を支配し、神職を任免していた吉田家(吉田神道流宗家)は、式部の垂加神道が広まるのを警戒し、また前関白の一条通香(みちか)や関白近衛内前(うちさき)ら上級公卿は、幕府の介入・弾圧を恐れて少壮公卿たちの動きを抑えようとしていた。
この年、竹内式部が公卿たちに軍学や武術を指南しているという風聞が京都で広まった。

竹内式部(たけのうちしきぶ):
新潟で5代続く医者の家に生まれる。
父が没した翌年、18歳で学問のため京都に出る。
彼は、医学で、後藤艮山(こんざん)を生み、吉益東洞・山脇東洋などを育てた京都を学問の地として選んだ。
まず徳大寺家の雑掌に身を寄せ、山崎闇斎の門流を汲む松岡仲良(ちゆうりよう)を最初の師とし、更にその紹介で玉木葦斎(いさい)につくことになる。
そして、公家的雰囲気の中で、垂加流の神道や、崎門学派の浅見絅斎などが説く、尊王斥覇の思想や大義名分論などに惹かれてゆき、崎門学派のひとかどの学者になっていった。

『竹内式部君事蹟考』で、「山崎闇斎の神学を奉じ、経学は四書・五経・小学・近思録を本とし、旁(かたわ)ら靖献遺言(せいけんいげん)・保健大記等を講述す」とあり、彼は、学者というよりは若い公家たちを自覚させようという熱意のある教育者であった。
彼の背後には、彼を育てた徳大寺家があり、その学問を自己の政治的理念の中核にすえようとする徳大寺公城(きみき)、正親町三条公積(きんつむ)、坊城中納言俊逸などがいた。
それが一つの大きな運動のようになって、公家の間に垂加流神道による古典の理解を呼び起こし、式部の影響下に入るものは数十人に及び、公家以外の門人を加えれば、その数700人をこえたという。

若い公家たちは、式部からうけた学問を桃園天皇(17歳)に伝えた。
この頃の朝廷は、幕府の圧迫をおそれ、天皇が30歳前後になると譲位をおこなってきた。
享保20年(1735)16歳で位を継いだ桜町天皇は、延享4年(1747)28歳で、7歳の皇太子(桃園)に譲っている。
若い公家たちのこの桃園天皇への講義は、史記・日本書紀に及び、ここで「天下の大道」を説いて聞かせた。
しかし、幕府は、禁中並びに公家諸法度において、天皇の学問を規定し、政治に関係のない和歌をその第一に推していた。
天皇が「天下の大道」を学ぶことは、朝廷内の古い勢力にとっては危険極まりないことであった。

関白一条道香(みちか)、近衛内前(うちさき)、武家伝奏広橋兼胤(勝胤)・柳原光綱などの反対派は、徳川幕府の弾圧を恐れ、式部の講義に不審なるところがあり、ことに堂上の公家が最近武術の練習など始めているが、それもその講義の影響であると思われるとして、京都所司代に訴え出た。

しかし、京都所司代松平右京大夫輝高(てるたか)は、この両伝奏による訴えに対し、第一回目の審問では式部に不審の点なしとした

宝暦8年(1758)7月、朝廷内部の反対派は、そのためにかえって硬化し、徳大寺公城・正親町三条公積ら20人の公卿を一挙に処罰した。
それをもって、再び竹内式部の罪を所司代に訴えようとしたの。
こうなると所司代も遂に式部を処罰しなければならなくなり、不審な証拠もないまま、式部は子の主計(かずえ)とともに京都を追放された。
朝廷内部の新旧勢力の争いの中で、式部は新勢力の火に油を注いだことになる。
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・郡上の駕籠訴人・代表30人に郡上への帰国命令。
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12月23日
・郡上一揆。駕籠訴人5人・村方三役30人、共に郡上への帰国を命じられる。
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1757年(宝暦7)
この年
・この年、柄井川柳「万句合」創刊。真先稲荷社参詣多く、田楽茶屋数軒できて繁昌す。
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屋形船
三田村鳶魚(えんぎょ)の『江戸の春秋』(中公文庫)によると、屋形船は寛文・延宝(1661~81)の頃が全盛期で、天和(1681~84)になると船の大きさに制限が加えられ、宝永3年(1706)には屋形船の数が100艘に制限される。
宝暦7年頃には60~70艘になる。一番大きいのが吉野丸、続いて兵庫丸、夷(えびす)丸、大福丸、川一丸などが大きい屋形船だった。
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・この年、信濃川の宝暦の「横田切れ」が発生。
当時の惨状を唄ったくどき(口説き)がある。
宝暦7年の横田切れ口説きは、家も家財もみな流された結果、妻子をおいて出稼ぎに向かう夫の嘆きを伝えている(『巻町史 通史編下巻』)。
越後では有名な民俗芸能「角兵衛獅子」がある。これは、信濃川中流部の中之口川(なかのくちがわ)沿岸の農民角兵衛が、毎年の凶作や飢饉から村人を救うために、獅子舞を創案した。その始まった時代は定かではないが、獅子頭をかぶった子供たちが太鼓や笛の音に合わせて見せる逆立ちやトンボ返りなどの曲芸が全国に知られ、同情と人気を集めたという。
こうした、非常・臨時的手段としての職種が発達したのは洪水多発地域の宿命であったのかもしれない。

新潟平野とも呼ばれる越後平野は、長野県からほぼ北に流れて日本海へ注ぐ信濃川と、福島県から西へ流れ、信濃川河口近くで海に注ぐ阿賀野川が運ぶ土砂によって形成された。
越後平野は別名・蒲原平野とも呼ばれ、古くは、その名のとおり、蒲の穂が繁茂する広い潟湖に近い地形にあった。
今でこそ、わが国有数の米どころとして有名であるが、それは、信濃川河口から遡ること約60kmの地点に造られ、大正11年に通水した大河津(おおこうず)分水路と、ポンプを利用した排水機械によって成し遂げられたものである。
これらの近代技術が登場する以前の越後平野は、排水不良の強低湿地が多く、田植時は、泥の中に首まで浸かり舟を押しながら行うような地域さえ存在していた。

こうした地形ゆえ、信濃川の洪水が一度、堤防を押し切れば、越後平野は泥海と化した。信濃川の洪水で、とくに有名なものに宝暦7年、明治29年(1896)があり、後者は近代に入ってからのものであるが、江戸時代の状況が続いていた。
いずれも同じ破堤地点の名にちなみ「横田切れ」と呼ばれている(現大河津分水地点の直下流)。明治29年の洪水では、新潟平野の大部分が水没した。
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