東京 北の丸公園 2012-09-13
*ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(38)
「第2章 もう一人のショック博士
- ミルトン・フリードマンと自由放任実験室の探究 -」(その8)
シカゴ大学経済学部の「チリ・ワークショップ」
留学生にシカゴ学派の学説を吹き込むことは、シカゴ大学経済学部にとって急を要する最優先事項となった。このプログラムの責任者で、ラテンアメリカの学生を歓迎する役目を担ったのはサファリスーツを着た経済学者、アーノルド・ハーバーガーである。チリ人を妻に持つハーバーガーはスペイン語を流暢に話し、自らを「献身的な伝道者」と称していた。チリの学生がやってくると、ハーバーガーは「チリ・ワークショップ」という特別講座を設けた。シカゴ大学の教授たちがチリ経済の問題点をきわめてイデオロギー的な観点から解説し、それを修正するにはどうすべきかを学問的に処方するという内容だった。
チリの開発主義、貧困緩和策、医療制度、教育制度を攻撃する
「突然、チリとその経済が経済学部の日常会話の話題に上るようになった」とふり返るのは、一九五〇年代にフリードマンのもとで学び、のちに世界的に有名な開発経済学者になったアンドレ・グンダ-・フランクだ。
チリのあらゆる政策(強力な社会的セーフティーネット、国営産業に対する保護政策、貿易障壁、価格統制など)が詳細にわたって検討に付され、その欠陥が指摘された。
学生たちはこうした貧困の緩和策を蔑視するように教え込まれ、博士論文でラテンアメリカの開発主義の愚かさを分析した学生も少なくなかった。
五〇年代から六〇年代にかけてたびたびサンティアゴを訪れたハーバーガーは、帰国するたびにラテンアメリカで最高水準にあったチリの医療制度や教育制度を、「後進国である身分に不相応の愚かな試み」だとこきおろした。
フォード財団は内部に批判があるものの資金提供を続ける
フォード財団の内部には、このような露骨なまでにイデオロギー的なプログラムに資金を出すことへの懸念もあった。シカゴ大学の学生を対象にした講演にラテンアメリカから招かれる講師は、すべてこのプログラムの元奨学生だと指摘する声もあった。
「この取り組みの質の高さと影響力は否定できないものの、その思想的狭量さは重大な欠陥である」と、フォード財団のラテンアメリカ専門家ジェフリー・パーイヤーは同財団内部の調査報告に書いている。「発展途上国の利害は単一の視点からだけでは適切に把握できるものではない」。こうした評価にもかかわらず、フォード財団はプログラムへの資金提供を続けた。
「フリードマン本人よりもフリードマン主義に徹していた」卒業生がサンチアゴにチリ版シカゴ学派を形成
最初のチリ人学生が留学を終えて本国に帰る頃には、学生たちは「フリードマン本人よりもフリードマン主義に徹していた」と、サンティアゴのカトリック大学の経済学者マリオ・サニヤルトゥは書いている。
そのうちの多くがカトリック大学の経済学部の教授に就任し、サンティアゴのど真ん中に小さなチリ版シカゴ学派が形成された。
本家と同じカリキュラム、同じ英語の教科書が用いられ、これこそ「純粋」で「科学的」な知見であるとの揺るぎない主張がなされた。一九六三年には同学部の専任教員一三人のうち一二人までがシカゴ大学のプログラム修了者で占められ、第一期生の一人であるセルヒオ・デ・カストロが学部長に就任した。もう、わざわざアメリカまで行く必要はない。何百人という学生がサンティアゴに居ながらにして、シカゴ学派の教育を受けることができるようになったのだ。
*ケネディ政権の有名な経済学者ウォルター・ヘラーはかつてフリードマンの信奉者の狂信ぶりを揶揄して、「フリー式もいれば、フリードマン流もいるし、フリードマン風も、フリードマン型も、そしてフリードマン型もいる」と述べている。
「シカゴ・ボーイズ」
シカゴであれ、そことフランチャイズ契約を結んだサンティアゴであ、このプログラムで学んだ学生はラテンアメリカ全域で「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれるようになった。USAIDの助成金が増額されるに伴い、チリのシカゴ・ボーイズはラテンアメリカで「新自由主義」と呼ばれる考え方をこの地域全体に拡大する熱心な大使となって、シカゴ大学のフランチャイズを増やすべくアルゼンチンやコロンビアに赴いた。
その目的は、「ラテンアメリカ全体にこの知識を広めるとともに、自由の実現を妨害し、貧困と後進を永続化させた思想的立場と対決する」ことだと、プログラムを終了したあるチリ人学生は述べている。
一九九〇年代にチリの外相を務めたフアン・ガブリエル・パルデスは、何百人というチリ人学生にシカゴ学派の正統的見解を教育することは、「アメリカ合衆国からその直接的影響力の及ぶ国へとイデオロギーを組織的に伝達する特筆すべき例であり(中略)これらのチリ人の教育は、一九五〇年代にチリの経済的指向の発展に影響を与えるために設置されたある特定のプロジェクトに由来する」と記している。
さらにパルデスは、「彼らはチリ社会にまったく新しい考え方、チリの”思想市場”には存在しなかったアイディアを導入した」と指摘している。
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