東京 北の丸公園
*1757年(宝暦7)
この年
・ポルトガル、ポルトの民衆、ワイン売買の自由を求めて暴動。
大規模生産者と輸出業者が糾合した「アルト・ドーロ葡萄栽培会社」が、ポンバル侯から様々な特許を得て、ワイン生産・販売に規制・干渉を行う。ポンバル侯は死刑17・流刑130の弾圧。
18世紀前半、ポルトガルのワインの対英輸出は飛躍的に増大するが、その結果、栽培不適切な地域にまで作付け面積が広がり、1750年代初め、ワイン価格は暴落。
また、それに付け込んでイギリス商人はポルトガル人生産者からブドウを買いたたく。
ボンパル侯は、18世紀前半に急増した中小ブドウ生産者からドーロ川上流の大規模生産者を保護する為、「アルト・ドーロ葡萄栽培会社」を設立、ポートワインの銘柄・品質の維持を目的にヨーロッパ最初の生産地指定銘柄制を実施し、指定地域以外のワインをポートワインとして輸出することを禁止。
更に、他地域では小麦耕作が向いているとの口実でブドウ樹を引き抜かせてワイン価格下落を防ごうとする。
[ボンパル侯独裁]
1750年、ジョアン5世に代ってドン・ジョゼ(1750~77)が国王となり、外務・国防大臣にロンドン・ウィーンに勤務経験をもつ小貴族セバスティアン・ジョゼ・カルヴァーリョ・イ・メロ(後のボンパル侯爵)が登用される。
カルヴァーリョ・イ・メロは、1755年のリスボン大震災の後始末を見事に処理して、国王の絶対的信頼を勝ち取る。王は狩猟・馬術に興じ、国政に無関心で、以後77年ドン・ジョゼ没までボンパル侯が絶対的な権力を振い国政全般を取り仕切る。
①反王権派(大貴族、イエズス会)弾圧。ボンパル侯が失脚時に釈放された政治犯800、独裁期間中の獄死者2,400。イエズス会は追放、財産没収(1759)。異端審問所を国王裁判所に再編、弟パウロ・カルヴァーリョを長官に任命。
②経済的対英従属脱却。「商業評議会」の設立(1755)。商人にも貴族特権である限嗣相続財産設定を認める。新旧キリスト教徒の差別廃止。植民地貿易特権会社設立(ブラジル貿易の為のグランパラ・イ・マラニャン会社(1755)、ベルナンブ・コ・イ・パライーバ会社(1759)、ブラジル捕鯨会社(1756)など)。
③工業化推進。原料輸入・税制上の優遇措置、製品の一定期間の販売独占権付与、外国人技術者招聘、中小マニュファクチュア優遇、ギルドの一部廃止など。
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1月
・沢田東江「異素六帖」刊行、江戸洒落本の初め。
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・医学寮再春館が発足
肥後の領主細川重賢は、すでに私塾(復陽堂)を持ち、細川重賢を治療し、信頼がある村井見朴(けんぼく)に対して、重賢は宝暦6年12月、医学寮を作ることを命令し、現在の熊本市二本木に宝暦7年1月19日、再春館が発足した。見朴は筆頭教授。
当時の校舎の図面が残されているが、多くの寮をもち、また講堂、植物園を備えている。
宝暦6年12月21日付細川家文書が残っている。
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1月5日
・フランス、ロベール・フランソワ・ダミアン、ルイ15世暗殺を企図、失敗。
3月28日(27日とも?)、八つ裂き刑。死刑執行人シャルル・アンリ・サンソンは処刑の様子について手記を残す。
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1月7日
・郡上一揆。
駕籠訴人が郡上へ送り返される。駕籠訴人を迎える百姓の数知れず、直ちにそれぞれ村の庄屋宅に作られた座敷牢に監禁される(村預け)。
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1月17日
・ロシア・ポーランド・スウェーデン、プロイセンに宣戦布告。7年戦争参戦。
7年戦争は、ヨーロッパでは、イギリス・プロイセンと、オーストリア・ロシア・フランス・スウェーデン・スペイン(1762年参戦)・ドイツ諸侯との間で戦われ、北アメリカ、インドなどでは、イギリス・フランス間で陸海に渡って戦われる。
プロイセン・オーストリア戦争を第3次シュレージエン戦争、北米でのイギリス・フランス間戦争をフレンチ・インディアン戦争(1755年9月~)、インドでの戦争を第2次カーナティック戦争とも呼ぶ。
[これまでの経緯]
プロイセンのフリードリヒ大王は農業生産力の高いザクセンの兵站基地化を狙い、1756年8月29日、先制攻撃をかけ、全ザクセンを占領、これを兵站基地化する。
10月1日、オーストリアはザクセンを救援しようとするが、プロイセン軍はロボジッツの戦いでザクセン・オーストリア軍を撃破。プロイセンはオーストリアの同盟国ザクセン公国救出の企図を阻止。
その後、オーストリアは自国での防備を固める。プロイセンはシュレージェンとザクセンで、オーストリア軍はベーメンとメーレンで夫々冬営に入る。
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1月21日
・フレンチ・インディアン戦争。かんじきの戦い。
ロジャーズ・レンジャーズとフランス、インディアン同盟軍の小規模戦闘。
ロバート・ロジャーズと兵たちは、1月21日に、シャンプラン湖に面したカリヨン砦で偵察遠征を行い、フランスの正規軍とヌーベルフランスの民兵、そしてインディアンによる混成軍を待ち伏せしていた。
日没頃、戦闘は終わり、両軍でそこそこの死傷者。
フランス側は、イギリス軍(ロジャーズ・レンジャーズ)はかんじきを履いていたため、雪の上の戦いにかなり有利であったと主張。
イギリスは、インディアンとの同盟関係は弱く、レンジャー(猟兵)の偵察力と情報収集能力に援助を仰ぐ。これによりレンジャー組織が作られ、ロバート・ロジャーズが指揮官となり、最終的にはロジャーズ・レンジャーズとして知られるようになった。
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