2012年9月29日土曜日

ノストラダムスの生涯(2) 宗教から自由に、権力からしたたかに生きたフランス・ルネサンスの人

東京 工芸館(旧近衛師団司令部)
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ノストラダムスの生涯(2)

 ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)は、1503年12月14日(木曜日)(あるいは23日)正午頃に、南仏プロヴァンスのサン・レミー・アン・プロヴァンス町で誕生(ユリヤヌス暦によると12月14日になり、グレゴリウス暦によると23日)。

祖父ピエールは、15世紀にイタリヤからフランスへ帰化した医者・占星学者であり、ルネ公と呼ばれていたアンジゥー公に仕えていた。ノストラダムスは由緒あるユダヤ系の家門の出である。

 ところが、プロヴァンスで落ち着いた平和な生活を送っていたユダヤ人たちは、ユダヤ教徒迫害から逃れるためには、キリスト教へ改宗せねばならなくなる。
シャルル8世とルイ12世よって、アンジゥー地方・メーヌ地方が王領に併合されるにつれて、王権拡大のための財源を求める必要から、さまざまな課税が制定され、同時にユダヤ人の迫害も行われた。
改宗せねば着のみ着のままで追放されることになるため、ピエール・ド・ノートルダムは、他のユダヤ人資産家たちと同じく、潔く改宗して、自分らの財産と地位とを守り了せた。
そして、その子ジャーク(公証人)は、同じ改宗ユダヤ人で、父ピエールと同じ職業に携わっていたジャン・ド・サン・レミーの娘ルネと結婚し、その間にミシェル・ド・ノートルダムが生れた。

 ノストラダムスは、幼時から学問好きで、外祖父のジャン・ド・サン・レミ-から様々な学問の手ほどきを受けるが、特に数学・占星学・医学を教えられた。
青少年時代は、当時の多くの学生同様にフランス各地の大学を遍歴し、アヴィニョン、トゥルゥーズ、ボルドー、モンペリエで研究し、イタリアにも赴く。そして、1529年には医学博士となる。

 アヴィニョン時代のノストラダムスは、雲は海から吸いあげられてできるのではなく、地上の蒸気が集まってできるものであるとか、地球は丸いものだと説いて、驚異の的となったという。

 1537、8年頃、新教の盛んなアジャンにいて、新教的傾向の強いユマニスト、ジュール・セザール・スカリジェやフィリベール・サラザンと親交を結び迫害の危機に直面する。
祖父以来ユダヤ人として迫害され、せっかくキリスト教に改宗したのに今度は新教徒として迫害されそうになった。
この事件以来、ノストラダムスは新教的だと誤解されるような言動は一切慎む決心をした。
当時、何人もの人は、誠実に考えて末に新教徒になり、進んで迫害も受けたが、ノストラダムスにとっては、もう迫害はたくさんだった。

 著者はこう言う。
「世のなかの人々が、雲は地上から上る蒸気であることも、地球は丸いことも、十分に考えようともせぬころに、少年のくせに新知識を持っていたノストラダムスにしてみれば、信仰問題で人間が人間を迫害したり殺戮したりすることは、まさに児戯に類する愚挙と思われたかもしれないのです。そして、相手が愚劣で乱暴な子供のような人々ならば、何もまじめに良心問題など持ち出す必要はなく、大人らしくうまくやって、こっちはこっちのことをするまでのことと考えたのかもしれません。事実ノストラダムスは、死ぬまで、カトリック信者としてなすべきことは一切果たします。」

 「<三位一体>の幻義を真面目に疑い続けて、新旧両派から迫害されたミシェル・セルヴェを異端とするならば、もはや宗教に拘泥することを好まぬノストラダムスは超異端だったかもしれないのです。彼は、愚劣な迫害を避けるるために、フランスの国教カトリック教徒となり、更に、宗教戦乱の激しさから身を守るために、人間の弱点を衝く方法を考え出したのかもしれません。」

 彼は、一人前の医者となってからは、各地に頻発した黒死病防疫のために転々として旅をし、黒死病は「神の怒り」とされて、消毒法・防疫法など考えられなかった時代に、ごく初歩な消毒法を行い、各地(エクス、リヨン)で相当な成功を収めたと伝えられている。

 1547年頃、防疫のためにプロヴァンスの小さな町サロンへ出張した際、アンヌ・ボンサールという未亡人と結婚してこの町に落ち着いてしまう。
彼は、既に一度結婚して2子を儲けていたが、1538年頃に、最初の妻も子供たちも病死している。再婚してからは、6人の子供をもうけた。

 サロンで名医として信望された彼は、病気の診断や処方に際し、出生時星位の計算を加えたので、「サロンの町の星占いの医師」として有名になってしまった。
占星学を加味したことは、いんちきな診断・治療を行うためではなく、これまで研究してきた古代からの占星学を真面目に医学に取り入れようと考えたと思われる。

 1552年頃から、このサロンの町でも新教徒と旧教徒との血みどろな争闘が繰り返されるようになる。
サロンの新教徒には、貴族や有識階級の人々が多く、旧教徒は一般町民や農夫たちからなっていたため、騒動が起ると、民衆は、「新教徒を倒せ!」と叫びながら、新教徒と見なされた有産階級の人々の家を襲撃した。

 最も有名な例は、1560年頃の「灰色外套騒動」。サロンの農民たちが灰色の外套を着ていたことから、こう名付けられた。

 ノストラダムスは、新教徒からはカトリック派と見なされていたし、無知な市民や農民は、同じカトリック教徒であるにもかかわらず、また病気治療や農作や結婚や失せ物の行方などについてノストラダムスに「診察」してもらっていたにもかかわらず、彼を新教臭のある人物と見なし、更に、「魔法師」「異端」という罵りを浴びせ白眼視する場合もあった。

1550年、ノストラダムスは、当時流行した「暦」を作り天文占星の常識の普及化を企てた。
1552年4月1日、『化粧用品・果物砂糖煮について』を上梓しフランス全土にその名が知られるようになった。この著書は、白粉(おしろい)とかクリームとかの化粧品の製造法やその特殊な効力をのべたり、媚薬や強精剤や栄養保健用のジャムの作り方などを説明したもので、家庭衛生治療書として大好評だった。(1555年再版後も度々版を重ねる)

 著者は言う。
「このような書物が人々の要求にこたえたのは、申すまでもなく、病気とか死とかに対する予防治療を教えたという点でしょうが、そのほか、《星占いの医師》たるノストラダムスの名声があずかって力があったわけでした。」

 アンリ2世、同王妃力トリーヌ・ド・メディチ、その王子フランソワ2世・シャルル9世、その他フランス王室の人々も、外国宮廷の人々も、「なかば真面目に、なかば好奇心にかられてノストラダムスを招いたり、あるいは自らこれを訪れたりしました。」

 占星学に凝ったカトリーヌ・ド・メディチ太妃には特に信任され、1555年8月、パリに上京することを求められ、次いで、プロワの離宮に迎えられ、1564年には「王附医師」の称号を与えられる。
ノストラダムスがサロンへ隠退した後にも、1564年10月、カトリーヌ太后は、シャルル9世及びアンリ・ド・ナヴァール公(後のアンリ4世)と共に、ノストラダムスを訪れている。

 著者は言う。
「一般町民や農民たちのノストラダムスに対する関心も、王族や貴族たちに劣りませんでした。カトリーヌ・ド・メディチが、自分の子供たちの運命とヴァロワ王朝の将来について下問すれば、田舎娘は自分を棄て去った情夫の行方を質問するという有様でした。しかし、ノストラダムスは、あらゆる質問に丁寧には答えなかったそうですし、全く返事をしないこともありましたし、既に記したような謎の託宜を下すこともあったということです。いつの間にか、ノストラダムスは、何か神秘的なヴェールで自分を包む必要のあることを悟り、そのように振舞うようになっていたのかもしれません。

 広い知識探求の一端に置いたつもりの占星学研究が、いつの間にか、ノストラダムスの本業であるらしく人々には思われてきた上に、いつの間にか、これに神秘的な色合をも加えられるようになったノストラダムスに関しては、さまざまな物語が言い伝えられるようにもなってしまいました。」

 「一五五五年に『予言集』を発表した意図は、もちろん明らかには忖度(そんたく)できませんが、自分の研究の成果の公表と、ミスチフィカシヨン(他人を煙にまくこと)と、占術亡者を厄介払いすることとを兼ねていたかもしれません。そして、こうした研究へ没頭するノストラダムスの心根も、推量しにくいと思いますが、純粋な学者としての興味と、無知蒙昧な時代の人間どもに対する一種の復讐の快感とが、ふたつとも心中にあったのかもしれません。(・・・)人々の恐れる未来への関心を自分一人の掌中に集めてしまうことは、勝利と復讐との緒にもなるからでした。」

 ユダヤ教徒として祖父や親が受けた迫害、新教徒として「師匠あるいは彼が兄事した人々」が受けた迫害;
①祖父や父が受けたシャルル8世治下1488年の迫害から1542年発布「ユダヤ人迫害禁止令」までの様々な迫害。特に、1512年には改宗ユダヤ人さえも迫害された。
②エラスムスが書いたギリシャ語の手紙を所持していたばかりに逮捕された博識な人格者ジャン・ド・パンの例(1528年)
③誠実なジャン・ド・カオールの刑死(1532年)
④温厚なジャン・ド・ポワソンネの逮捕(1532年)

著者は言う。
「こうした蒙昧な狂信の犠牲とならぬようにするために、ノストラダムスは忠実なカトリック教徒として行動し続け、国教に従い、その旨を宣伝し続け、その結果、医学・薬学・占星学の研究に没頭できれば幸いと思ったわけなのでしょう。
しかし、深い学問や一般の人々よりも進んだ知識を持つことが、もはや世の人々には気に入らぬようになることがあるものです。
新旧両派の殺人ごっこの間に、ノストラダムスは身の置き場に苦しむようになったこともしばしばありました。新教徒からは、陰険な旧教徒と見なされますし、旧教徒からは、本心はルッター派かユグノー派かのにせカトリックだとまで思われたばかりか、ふしぎな透視力を持つ人間として「魔法師」「異端」ともよばれるようになりました。
ノストラダムスは、恐らく、そのいずれでもないのであり、ただ狂信と迫害とは御免だったのでしょう。そして、その犠牲とならぬための自己防衛の道は、自ら進んで気味の悪い「魔法師」「異端」となり、人々の心の弱点を衝き、人々の精神の盲点を掴むことにあったわけでした。
そして、その点彼は成功したらしく思われます。これによく似た別の例は、この時代の東洋学者ギヨーム・ボステル(第七章を参照)に見られるかもしれません。」

喘息を病み通していたノストラダムスは、1566年6月17日、死期の近いのを悟り、遺言状を作る。現金だけでも、3,444エキュにのぼる莫大な財産を持っていた。7月2日朝、63歳で歿。

著者は言う。
「ユダヤ人ノストラダムスは、フランス・ルネサンスの著名な人々のなかに異様な姿を見せています。世間一般の人々よりも違った軸によって思考するということもユダヤ的と言えるならば、ノストラダムスにもモンテーニュにも、一貫したものがあるような気がします。
私は先に、ノストラダムスを「超異端」と呼びましたが、それは、ルネサンス期に異端視された他の人々よりも、更に別な次元に彼が生きているように思われたからです。
他の人々は、異端視されると反抗したり弁明したりして、その結果、迫害されたり刑死したりしている場合もありましたのに、ノストラダムスは、自分を異端視する人々の心に宿る弱点を掴み、異端視されるがゆえに畏敬されるという結果を招来しえたようにも思われます。
他の人々にとっては、宗教はおそらく倫理の中軸、思考の中心にあったのでしょうが、ノストラダムスにとっては、宗教は一個の約束にすぎなかったかもしれません。
宗教が思想問題の軸となっている時代に、これほど「異端」的な考え方はないわけです。
そして、こうした見方が許されるとするならば、ノストラダムスをこのような立場に赴かせたもののなかには、ユダヤ人としての特異な血液や、早く生れすぎた聡明な人間の血液があるのではないかとも思います。しかし、また全然別な考え方もできるかもしれません。
即ち、ノストラダムスの場合も、産をなした中産・有産階級の人間が、ただ安穏な現状維持を願い、一見異常に見える方法で何とか成功した多くの例中の一つの平凡な例であるかもしれない、という風に。(nov.1947.mars.1964)
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フランス・ルネサンスの人々 (岩波文庫)


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