2012年9月24日月曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(39) 「第2章 もう一人のショック博士 - ミルトン・フリードマンと自由放任実験室の探究 -」(その9)

東京 北の丸公園
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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(39)
 「第2章 もう一人のショック博士 
- ミルトン・フリードマンと自由放任実験室の探究 -」(その9)

チリ・プロジェクト;知的帝国主義
このプロジェクトは、知的帝国主義の一形態であることを隠そうともしなかった。

チリ・プロジェクトのつまづき
しかしそこには問題があった - 思惑どおりにはいかなかったのである。一九五七年にシカゴ大学から米国務省の資金担当者に宛てられた報告書によれば、「このプロジェクトの主要な目的」は「チリの経済問題において知的指導者となる」学生を数多く教育することにあった。ところがシカゴ・ボーイズは指導者となるどころか、取り残されてしまったのである。

ブラジル、アルゼンチン、チリで左派路線が優勢となる
六〇年代初頭、南米南部地域における主要な経済論議は、自由放任型資本主義と開発主義のどちらを取るかではなく、開発主義の次の段階はどうあるべきかという点にあった。
マルクス主義者は国有化と徹底した土地改革の推進を主張したのに対し、中道派はラテンアメリカ各国間の経済協力を拡大して、ヨーロッパや北米に匹敵する強力な通商圏への転換を目指すべきだと主張した。
世論調査や一般市民の意見では、左寄りの路線が大きな支持を集めていた。

一九六二年、ブラジルは六一年に就任したジョアン・グラール大統領のもと、明確にこの方向に舵を切った。経済的ナショナリストであるグラールは、土地の再分配や労働者の賃上げを推進し、外国の多国籍企業が利益の一部を国外に持ち出してニューヨークやロンドンの株主に再分配するのではなく、ブラジル経済に再投資するよう熱心に主張していた。
一方、アルゼンチンの軍事政権は、亡命したフアン・ペロン元大統領の支援者ベロニストで構成されるペロン党の選挙への出馬を禁止することで、同様の主張を封じ込めようとしていた。だが、こうした動きは反対派をより急進的にし、政権奪回のためには武装闘争も辞さない若いベロニストの新世代を生む結果にしかならなかった。

こうした思想闘争の敗北がもっとも明確だったのは、シカゴ大学の実験の中心地、チリにおいてだった。
チリでは一九七〇年に行なわれた歴史的選挙で、三大政党がすべて同国最大の収入源である銅山(当時、アメリカの大手鉱山会社に支配されていた)の国有化に賛成し、大きく左寄りの政策を取った。

チリ・プロジェクトは高くつく失敗に終る
言い換えれば、(チリ・プロジェクト)は高くつく失敗に終わったのだ。
左翼の敵との関に平和な思想闘争を挑むイデオロギー戦士たるシカゴ・ボーイズは、その使命を果たせなかった。経済論議がどんどん左にシフトしていっただけでなく、シカゴ・ボーイズはあまりに弱小で、チリの選挙における勢力地図にまったく影響を及ぼすことができなかったのである。

ニクソン大統領の登場
(チリ・プロジェクト)はそのまま歴史上の小さな脚注に終わったかもしれない。
けれどもそこに、シカゴ・ボーイズを無名の存在から救い出す出来事が起きる。アメリカでリチャード・ニクソンが大統領に選出されたのだ。ニクソンは「創意に富み、全般的に効果的な外交政策を打ち出した」と、フリードマンは熱っぽく述べている。そしてもっとも創意に富む政策が実施されたのがチリだった。

独裁政権こそがこの国になじむもの
シカゴ・ボーイズと彼らを教育した教授たちに、彼らが長く夢見てきたものを与えたのがニクソンだった。ニクソンは、資本主義的ユートピアが単なる地下作業室での空論ではないことを実際に試す場 - ひとつの国をゼロから作り直す機会を提供したのだ。
チリの民主主義にさんざん冷過されたシカゴ・ボーイズにとって、独裁政権こそこの国になじむものだと考えられた。

(つづく)

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