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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(39)
「二十四 「銀座食堂に飯す」-東京の復興は飲食物より」(その2)
「銀座に数多くのレストランや食堂が出来るきっかけになったのは関東大震災である。」(川本)
松崎天民『銀座』(銀ぶらガイド社、昭和2年)によれば、「関東人震災後『東京の復興は飲食物より』と思わせたほど、市内の何処へ行っても、先ず第一に店を開いたのは、カフェーや小料理店や、おでん屋や寿司屋の類であった」という。
島崎藤村「食堂」(大正15五年~昭和2年)。
香、扇子、筆墨などを扱う京橋の老舗が関東大震災でやられる。旧世代の母親は気力をなくすが、新世代の息子は震災後の混乱のなかでたくましく新しい商売をはじめる。それが食堂である。芝公園のなかに俄普請の、せいぜい五組か六組はどの客しか迎えられない狭い食堂を建てる。それが思いのほか、当ってしまう。
「東京の復興は飲食物より」という状況は、飲食店の数を増やしただけ、その形態、内容にも変化をもたらした。
ひとことでいえば大衆化である。
待合がカフェーに変ったように、割烹料理店が食堂に変っていく。
銀座の老舗の天ぷら屋”天金”の子息として知られる池田弥三郎は、随筆『わが町 銀座』(サンケイ出版、昭和五十三年)のなかで、震災後は天金でも商売が変り、食堂を設け、簡易な天井を出すようになったと書く。
「一事が万事、諸事簡便になって、手っ取り早くなった。外套も脱がず、帽子をかぶったままで、椅子にかけて大どんをたべているお客さんを見て、元治元年生まれの祖母は、『チェッ、いやんなっちまうね』と、いまいましそうに舌打ちをした」
日本橋の三越は、震災前は店内が全部畳敷きで、客は下駄を脱いで下足札を持って上がったが、それも震災とともになくなり、震災後は、土足のまま入れるように形を変えた。
時代が、よくいえば合理的に、悪くいえばあわただしくなったのである。
池田弥三郎の師折口信夫は、こういう銀座を批判し、「この町の古家のしにせ 賑ヘど あきなひ早くなりて さびしき」と歌ったという。
震災後、外食もさかんになった。
外で食事をとる習慣は、それ以前も一流の料理店であるにはあったが、それを一般家庭人が利用するのはごく稀で、宴会とか結婚式、法事など特別の場合に限られた。
宴会などは男のためのもので、家庭の女性にはまず縁がなかった。
「「外食」のはしりはなんといってもデパートの食堂である。」(川本)
これが出来てから女性も買物の帰りに気軽に入れるようになり、「外食」の習慣が生まれた。
デパートの食堂はショウウィンドウがあり、そこに食品のサンプルと値段を明示した。
これは画期的な商法で、このために女性がいっそうなかに入りやすくなった。
この”食物陳列”はやがて他の食堂やレストランにも波及し、「外食」の習慣を普及させるのに役立った。
商品サンプルを新奇の風俗としてやや椰輸的に記す。
「或人の説に東京市中の飲食店にて其店頭に網子張の棚を設け、料理したる飲食物を陳列し、一皿ごとに定価をつけるやうになりしは大阪市中の洋食また支那料理屋に始まり、三越其他百貨店の食堂この風を学び、遂に蕎麦屋汁粉屋にまで及びしなりと云ふ。銀座通地震前には見ざりし奇風なり」(昭和10年7月3日)
「或人」とは、博識の校正家でこの時期荷風がよく銀座で会っていた粋人神代帚葉(コウジロソウヨウ)。「濹東綺譚」「作後贅言」で、帚葉に聞いたこととして、「飲食店の硝子窓に飲食物の模型を並べ、之に価格をつけて置くやうになったのも、蓋し己むことを得ざる結果で、これ亦其範を大阪に則つたものだといふ事である」としている。
徳田秋声「縮図」の冒頭、昭和10年ころの銀座の描写のところでこれに触れ、食物を陳列してある店、「入口に見本の出てゐるやうな食堂」は「大衆の匂ひ」をかぐことが出来ていいと書いている。
(つづく)
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