2012年9月18日火曜日

元亀2年(1571)10月 北条氏康(57)歿 レパント沖の海戦 [信長38歳]

東京 平川濠 2012-09-11
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元亀2年(1571)
10月
この月
・信長、筒井順慶と山城国賀茂郡地侍に松永久秀・久通父子の多聞山城攻撃命令。
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・10月頃に最大となった摂津池田家の版図:
木代(豊能町)、下田中(三田市)、小柿(三田市)、湯山(神戸市北区有馬)、加茂(川西市)、久代(川西市)、小戸(川西市)、栄根(川西市)、細河(池田市)、服部(豊中市)、小曽根(豊中市)、北条(豊中市)、熊野(豊中市)、原田(豊中市)、萱野(箕面市)、桜井・牧落(箕面市)、粟生(箕面市)、箕面寺(箕面市)、止々呂美(箕面市)、小野原(箕面市)、新稲(箕面市)、宿久(茨木市)、蔵垣内(茨木市)、福井(茨木市)、安威(茨木市)、太田(茨木市)、郡(茨木市)、吹田(吹田市)、芝原(豊中市)、余野(豊能町)、止々呂美(箕面市)、などに私領・縁故者・代官地などの影響地を持ち、それらを束ねる総領として大きな力を持つ。
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・若狭の「神宮寺領諸成物目録」に、遠敷郡恒枝のうちから神宮寺は成物として226文を唐人6官に納めたとある。
また年未詳で、芝田吉定ほか2名による神宮寺月行事御房に宛てた連署状には、唐人6官より届けた酒舟(酒槽)の板が神宮寺にあり、この板を小浜まで出して欲しい、舟を申し付けて待つとある。この唐人は元亀2年以前に小浜地域に来住と推測できる。

天文年間(1532~55)中頃より日明間の商船往来が盛んとなるが、天文末年~弘治・永禄(1555~70)、中国沿海地方の海冦のため日明間通商は一時断絶、海冦の勢いの鎮静化とともに商船往来が復興。

明代初期は抽分(交易税)を課して商船の海外通商を公許するが、やがて一般に下海(渡航)禁止となる。
明は外国との通交は朝貢制度をとり、外国商船往来にも海禁制度(入・渡船を禁止する制度)をとる。
しかしその間、禁を犯して下海する明船もあり、福建の泉州(漳州・泉州)地方がその中心。

15世紀末~16世紀初、同地方より南海方面へ通商する船が増え、嘉靖20年代(1541~50)には漳泉州を主とする商船が日本へ来航。
しかし、やがて中国沿海一帯に海冦が跳梁し、倭冦も加わり、漳泉州を中心に開海禁(海禁の解除)が主張される。
嘉靖44年(1565)海澄県設置、隆慶6年(1572)東西両洋の貿易公許が施行される。
その結果、フィリピン関係では、16世紀末以降、貿易の発展と中国人の植民居留者の増加がみられ、このような対外関係の変化が海冦鎮静の大きな要因ともなる。

日本への明船来航は次第に増加し、日本に来居或は亡命する明人も少なくない。
中国人の来居は九州地方に多くみられるが、本州各地にも及ぶ。
「伊達輝宗日記」には天正初年頃、唐人がしばしば伺候すると記される。
翰林学士楊一竜(漳州人)、来日3年後、出羽に在り、天正3年(1575)秋に虎哉宗乙と米沢の東昌寺に会し、宗乙は一竜の示した七言八句に唱和する。
元亀2年(1571)常陸の佐竹義重は管内居住の唐人の貨物の陸揚げを家臣の白土氏に監督させている。
16世紀後期頃、京都をはじめ関東・東北方面にも中国人の滞留が少なからずみられる。
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・エムデン全国カルヴァン派協会会議。代表ダテヌス宣教師。
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10月3日
北条氏康(57)、没。
信玄の西上に当り背後の脅威なくなる。氏康、信玄との和睦遺言。信玄は東方への野心なく謙信は関東管領として北条と利害対立。北条氏、武田方内藤昌豊と交渉。結果、謙信の希望も入れ越相甲和睦交渉となる。12月末、相甲同盟成立。
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10月7日
レパント沖の海戦
カール5世庶子ドン・ファン・デ・アウストリア率いる欧州カトリック連合艦隊(スペイン、ベネチア、ローマ法皇の各艦隊、総計317隻、兵員8万4千)、アリ・パシャ司令官のオスマントルコ艦隊(242隻、兵員8万8千)を破る。
カトリック連合艦隊損害はガレー船13隻(沈没12隻、捕獲1隻)死傷者1万5千。
オスマントルコ艦隊損害はガレー船230隻(沈没113隻、捕獲117隻)戦死者3万、溺死者多数、捕虜8千。ガレー船漕手のキリスト教徒奴隷1万5千解放。
脱出のオスマントルコ艦隊は10隻余のみ。
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10月8日
・松田秀雄、「段別之配符」状「助筆」を通達。山科言継は25通、山科言経は17通を送る。総数は5~600通。
内容は9月30日付松田秀雄・塙直政・島田秀満・明智光秀連署状の形をとり、「公武御用途」としての段別賦課の件で、田畠1段別1升を10月15日~20日に二条妙顕寺へ運上するという命令。違反者は在所没収・身上「御成敗」(「言継卿記」4)。
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10月10日
・松永久秀、普賢寺城に入城し山城久世郡槙島城を攻撃。
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10月14日
・信長、幕臣細川藤孝に居城勝龍寺城は要害であるため、桂川西岸家屋の門毎に人夫1人を3日間徴用し普請をするよう命令(「米田氏所蔵文書」)。
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10月15日
・信長、米を京都の民に貸付けその利子にて供御料にあてる。
松田秀雄・塙直政・島田秀満・明智光秀、洛中立売組中へ「禁裏様御賄」としての「八木」を京中へ貸し付ける、1町に5石を割り当て、利率を3割とすると通達。
また来年正月より毎月1町より1斗2升5合を進納すべきなど命令(「京都上京文書」)。

『信長公記』巻4では、この時期の「禁中」経済的困窮を目にした信長が、その助成として「洛中町人」に「属託(しょくたく)」(賞金)を預けおき、その「利足(りそく)」を「毎月進上」できるようにと取り計らったという。

実際は、「京中」の「一町」に「五石ずつ」の「八木(ハチボク)」(米)を預けおき、その「利平(リヒョウ)」(利息)「三和利(ワリ)」(3割)にあたる「壱斗弐升五合ずつ」の米を「来年正月より」「毎月」「進納」させるというもの。

この文書は、「立売組中」に宛てられていることから、信長の命令は、光秀らから町組を通して個々の町へ伝えられていたと考えられる。

命令を受けた個々の町の代表者である「月行事」や「行事」が確認のため署名と花押・印を据えて光秀らに提出し、更に禁裏御倉職の立入宗継に渡された記録が『元亀二年御借米之記』として現存する。
『元亀二年御借米之記』には、この時期の個々の町を代表する人びとの名が記載されている。
これによれば、下京には、中組(「中くミ」)・丑寅組(「牛寅くミ」)・川西組の3つの町組と夫々に所属する45町があったことがわかる。
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10月15日
・三好康長、大和興福寺を出立(「多聞院日記」2)。
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10月19日
・丹羽長秀、愛智郡政所谷7ヶ村に、炭商売を許可(「小椋記録」)。
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10月26日
・織田軍先発隊、上洛(「多聞院日記」2)。
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10月28日
・ロシア、イヴァン4世(雷帝)、3度目の結婚。11月13日花嫁、没。
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