2012年9月16日日曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(37) 「第2章 もう一人のショック博士 - ミルトン・フリードマンと自由放任実験室の探究 -」(その7)

東京 北の丸公園
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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(37) 
「第2章 もう一人のショック博士 
- ミルトン・フリードマンと自由放任実験室の探究 -」(その7)

チリでの開発主義と新自由主義の戦い:二人のアメリカ人
一方、南米南部地域からこの地域に深く根づいた開発主義を追放するのには、より大きな国難が伴った。
一九五三年、チリのサンティアゴで二人のアメリカ人が会見し、この目的をどのようにして達成するかを協議した。一人は米国際開発庁(USAID)の前身である米国際協力局チリ支局長アルビオン・パターソン、もう一人はシカゴ大学経済学部長セオドア・W・シュルツだった。
パターソンはアルゼンチンの経済学者ラウール・プレピッシュをはじめとするラテンアメリカの「左翼がかった」経済学音たちの影響力に恐れをなし、懸念を深めていた。
「必要なのは人間形成のあり方を変えること、すなわち現在きわめて劣悪な状態にある教育に影響を与えることだ」と、彼はある同僚に力説している。こうした彼の見解は、米政府はマルクス主義との知的戦いにもっと関与すべきだというシュルツ自身の考え方と一致していた。
シュルツはこう述べている。「アメリカは海外に展開している経済政策を吟味する必要がある。(中略)われわれは(貧困国が)自国の経済発展を達成するのに、わが国のようなやり方を取り入れ、わが国との関係を深めることによって経済的救済を成し遂げることを望んでいる

サンティアゴを自由市場経済の実験場へと転換すること
二人の男が考え出した計画は、やがて国家主導型経済の中心的舞台だったサンティアゴをその対極、つまり最先端の自由市場経済の実験場へと転換し、ミルトン・フリードマンに、現実の国家で自説の有効性を試す願ってもないチャンスを与えることになる。

アメリカ政府の資金でチリの学生をシカゴ大学で学ばせる
当初の計画はきわめてシンプルだった。アメリカ政府の資金でチリの学生を、大方の評価によれば当時の世界でもっとも「反左翼的」とみなされたシカゴ大学で学ばせるというものである。また、政府の資金によって同大学のシュルツとその同僚たちをチリへ送り、チリ経済を研究するとともに現地の学生や教授たちにシカゴ学派の基本を叩き込むことも含まれていた。

テンアメリカの学生をアメリカで教育するプログラムは数多くあったが、この計画がそれらと大きく違うのは、臆面もないイデオロギー的な性格にあった。チリの学生を学ばせる場として、教授たちが政府の介入をほぼ全面的に廃止することをバカのひとつ覚えのように主張するシカゴ大学を選ぶことによって、アメリカ国務省は開発主義との戦いにおける威嚇射撃を行なったと言える。国務省は、チリのエリート学生が何を学び、何を学ぶべきでないと米政府が考えているかを、チリ国民に明確に伝えたのだ。

チリ・プロジェクトの誕生
これはラテンアメリカの国内問題に対する、アメリカのあまりにも露骨な介入だった。その証拠に、アルビオン・パターソンがチリ随一の大学であるチリ大学の学部長に交換プログラム設置のための助成金を出す用意があると持ちかけると、学部長はこの申し出を断り、誰のもとで学生を学ばせるかの選択肢が与えられないのなら受け入れる余地はないと答えた。そこでパターソンは、チリ大学よりずっと保守的で、経済学部を持たないチリ・カトリック大学の学部長に同様の申し出を行なったところ、今度は快諾を得た。こうして、ワシントンとシカゴで(チリ・プロジェクト)と呼ばれる計画が誕生したのである。

目的は、ラテンアメリカの「左翼がかった」経済学者とのイデオロギー闘争に勝つことのできる戦士を育成すること
「私たちがここに来たのは競争するためであって、協力するためではありません」 - シカゴ大学のシュルツはこのプロジェクトがすべてのチリ人学生ではなく、選ばれた少数の者だけを対象にしている理由をこう説明した。
この闘争的な姿勢はプログラムの発足当初から明らかだった。(チリ・プロジェクト)の目的は、ラテンアメリカの「左翼がかった」経済学者とのイデオロギー闘争に勝つことのできる戦士を育成することにあったのだ。

一九五六年に正式にスタートしたこのプログラムにより、一九五七年から一九七〇年までの間に約一〇〇人のチリ人学生がシカゴ大学で大学院レベルの教育を受け、その学費と諸経費はアメリカの納税者や基金によって支払われた

ラテンアメリカ全域の学生に対象を拡大:フォード財団の助成
一九六五年、このプログラムの対象はチリだけでなくラテンアメリカ全域の学生へと拡大されたが、なかでも数が多かったのはアルゼンチン、ブラジルおよびメキシコの学生だった。
この拡大に伴う資金はフォード財団からの助成金によって賄われ、この助成金を元にシカゴ大学にはラテンアメリカ経済研究センターが創設された。このプログラムのもとでは、常に四〇~五〇人(経済学部の全学生の約三分の一にあたる)のラテンアメリカの学生が大学院レベルの経済学を学んでいた。
ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学(MIT)にも同様のプログラムがあったが、ラテンアメリカの学生の数は四、五人程度にすぎなかった。
わずか一〇年の間に、海外で経済学を学びたいと考えるラテンアメリカ人にとって超保守的なシカゴ大学が第一の留学先になったのは、じつに驚くべきことだ
(同時にそれは、ラテンアメリカのその後数十年間の歴史の流れを形づくることにもなったのである)。

(つづく)

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