2012年9月11日火曜日

昭和17年(1942)8月7日 米軍反攻 ソロモン群島ツラギ・ガダルカナル島来襲上陸

東京 北の丸公園
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昭和17年(1942)
8月7日
米軍反攻:ソロモン群島ツラギ・ガダルカナル島来襲上陸
日の出前、リッチモンド・ターナー少将指揮アメリカ・オーストラリア艦隊、アレクサンダー・バンデクリフト第1海兵師団長指揮攻略部隊、ソロモン群島ツラギ・ガダルカナル島来襲上陸、日没迄に約1万1千上陸(1万9105名中)。「望楼(ウオッチタワー)作戦」開始。

5月3日、日本海軍はソロモン諸島政庁のあるツラギ(ガダルカナル対岸)とその隣小島ガプツを占領、小艦艇基地とし、第84警備隊を編成配置(本隊約200名がツラギ、約50名がガプツに、約150名がガダルカナル島ルンガ岬付近に配置)。
また、5月、ガダルカナル島に飛行場適地を見出し、7月初旬、第13設営隊1,350名と第11設営隊1,221名を送り込む(7月1日先遣隊上陸、6日本隊上陸、16日設営開始)。
8月5日、飛行場第1期工事完成。
工事中から空爆あり、完成後は戦闘機部隊の進出を要望するが、ミッドウェーの痛手から恢復しきれていない事や、日本軍のポートモレスビー攻略阻止の為の前進基地に対する制圧攻撃と理解し、本格的奪回行動はまだ先(昭和18年以降)と考えており、この要望対応はせず。
実際には、米統合幕僚長会議は、6月26日、ツラギ、ガダルカナル奪回作戦発動を8月初と決定。
7月10日、ニミッツは作戦を下命。

この時点でガダルカナルには、第11設営隊(門前大佐、1,221名)・第13設営隊(岡村少佐、1,350名)が居るが、大部分が工員で小銃・拳銃で戦闘能力ある者は、第11設営隊約180・第13設営隊約100に過ぎない。他に、第84警備隊としてガダルカナルのルンガ押付近に約150、ガプツ島(ツラギの隣島)に約50、ツラギに約200が配置されているに過ぎない。

無血上陸できた理由。
①ラバウルからの距離が長遠な為に効果的攻撃ができず。
②ブーゲンビル島に配置の連合軍コースト・ウォッチャー(沿岸監視員)が、日本軍機の発進を目的地到着の1時間半前に通報。
③米重巡「シカゴ」のレーダーが日本軍攻撃隊の殺到を遅くも5分前に探知し、米空母「ワスプ」「エンタープライズ」「サラトガ」から60機が飛び立ち、邀撃。
④雲量多く視界不良。

○ガダルカナルの状況。
第11設営隊宿営地は海岸に近く、米軍来襲の衝撃も大きく、混乱状態に陥り、指揮官掌握下から離れジャングル内に逃亡する者が多い。
第13設営隊宿営地からは海岸は見えず、米軍来襲も知らず。
4時30分頃、警備隊から米軍来襲の報がもたらされる。岡村隊長は、第11設営隊や警備隊とも連絡がとれず、独力での長期抵抗は不可能と考え、西方へ撤退。
7日夜、門前第11設営隊長以下10数名が合流、西方マタニカウ川を渡り、グルツ岬西方に指揮所(後に海軍本部と呼ぶ)を置き、事態の推移を待つ。第84警備隊ガダルカナル派遣隊も少人数であり、高角砲6門・山砲2門しか持たず、圧倒的に優勢な米軍に抗し得ないので、これも西方へ退避、設営隊と合流して門前第11設営隊長(大佐)指揮下に入る。
8日夜半、彼らは陸上からツラギ海峡夜戦を望見し、友軍の来援上陸を信じる。
米軍来襲時の被害は、第11設営隊55%・第13設営隊35%と云う(判然しない)。

○ツラギ方面(ガブツ島、タナンポコ島を含む)の状況。
ガダルカナルと違い日本軍は洞窟陣地に拠って激しく抵抗(戦闘経過は米軍側資料にしか記録されていない)、在島日本軍は、少数の脱出者・捕虜を除き、いずれも玉砕。
ツラギでの抵抗は、一部少数のゲリラ的抗戦を別に、8日夕頃に終る。
横浜海軍航空隊約400・第84警備隊約50がいたガプツとタナンポコでの抵抗は激しく、タナンポコ上陸の米軍は7日夜、一時ガプツ島方面。しかし、8日夕頃にガプツ・タナンポコの大部分は米軍の手中に陥ち、一部の抗戦は翌9日遅くまで続く。

午前06時03分、第84警備隊等約250名、通信を断って玉砕。ツラギ島には米軍2個大隊が上陸。

午前6時25分、ツラギより「敵艦船二〇隻接近、我砲撃ヲ受ク」の報入る。第11航空艦隊司令長官塚原二三四中将、ラバウル第25航空戦隊(司令官山田定義少将)に反撃命じ、自分もテニヤンからラバウルに飛ぶ。
山田25航戦司令官は、艦爆隊の片道攻撃敢行を決意し、搭乗員救助の為に水上機母艦と二式大艇を予定海域に配備し、第8艦隊には駆逐艦急派を要請。

午前07時10分、巡洋艦3隻と駆逐艦4隻、多数の飛行機による砲爆撃下、ガダルカナル上陸開始。
不意をつかれた日本軍は混乱、ジャングル内に離散、通信所は破壊され島外との連絡は途絶。
第13設営隊長岡村少佐はルンガ川の線で米軍を阻止しようとするが、第11設営隊長門前大佐は困難と判断、8日朝までに後退。携行糧食は1週間分のみ。

午前07時35分(5時35分)、第8艦隊司令長官三川軍一中将、ラバウル所在の艦艇に出撃準備完成を命じ、この早朝ブナ輸送作戦(ニューギニア)支援の為にカビエンからアドミラルティ諸島に向かう旗艦「鳥海」と第6戦隊(「青葉」「衣笠」「加古」「古鷹」)に南下を命じる。

正午頃、ラバウルからの陸攻27・艦爆9・零戦17機、ガダルカナル上陸用船団を攻撃。陸攻5・艦爆5・零戦2が撃墜。米濠側損害は駆逐艦「マグフォード」大破のみ。
翌日の日本機の攻撃も日本機の損害大。オーストラリア人沿岸警備隊の通報により、事前に空襲を掌握。

(午後2時30分)、ガダルカナル島支援艦隊、ラバウル発(重巡「鳥海」を先頭に、ラバウル所在艦隊(五藤存知少将第6戦隊「青葉」「衣笠」「加古」「古鷹」、松山光治少将第16戦隊「天竜」「夕張」)率いガダルカナルに向かう)。
第8艦隊は、陸軍部隊の応急派遣がなくても、所在の海軍陸戦隊を投入するべく、佐世保鎮守府第5特別陸戦隊(佐5特)・呉鎮守府第3、5特別陸戦隊(呉3特、呉5特)から計519名を抽出(指揮官遠藤海軍大尉)してガダルカナルへ派遣を部署する。

(午後9時)、支援陸戦隊遠藤部隊(遠藤海軍大尉)、ラバウル発。
(8日正午)、海軍陸戦隊(遠藤隊)519人、ガダルカナル支援中止命令。ラバウルへ反転。
(8日午後8時)、米潜水艦攻撃で373人戦死。
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8月7日
・一木支隊(一木清直大佐)約2千、グアム出発。宇品目指すが夕方グアムに戻る
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8月7日
・大本教、出口王仁三郎・すみ・伊佐保ら保釈
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8月8日
・午前1時、連合艦隊司令部、再編成第3艦隊「瑞鶴」「翔鶴」らをソロモンへ派遣決定。
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8月8日
・ラバウルの25航戦、陸攻23・零戦15でガダルカナル泊地を攻撃。
駆逐艦「ジャービス」・輸送船「エリオット」沈没。25航戦は、前日と合せて2日間で陸攻23機を失う。
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8月8日
・米艦、キスカ島砲撃
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8月8日
・財団法人民族科学研究所創業
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8月8日
・川崎重工業株式会社製鈑工場(神戸市葺合区)、待遇改善要求歎願書署名調印運動。署名171名。26日、兵庫県特高課が取り締る。
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8月8日
・全インド会議派委員会、英のインドの撤退決議。英の大弾圧始まる。
インド国民会議派即時独立を決議。「インドを立ちされ(クィット・インディア)」運動開始。
9日、ガンディー、ネルーら逮捕。
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