東京 北の丸公園
*1755年(宝暦5)
6月
・北米水域で待ちかまえていたイギリス艦隊、フランス艦に発砲、拿捕。
翌7月、フランスは駐英大使を召還。
前年夏のフランス勢力とバージニア民兵隊との小競り合いが本格的戦争に拡大する。
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・ジュネーヴの市民ジャン・ジャック・ルソー、デイジョンのアカデミーの課題に答え、「人間不平等起源論」を出版。不平等の起源を私有財産に求めて攻撃、断罪。
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6月7日
・ペルシャ北部に地震が発生。4万人の死者
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6月24日
・ジャン・バプティスト・”アナカルシス”・クローツ(ドイツ人活動家、哲学者、無神論者、非キリスト教化運動提唱者)、ライン河畔のプロシア領で裕福な貴族の家庭に誕生。
76年パリに赴きディドロ「百科全書」編纂に参加、84年欧州各地周遊。89年フランス亡命。90年7月14日の全国連盟祭に外国代表団を率い参加。92年8月フランスに帰化。9月オワーズ県代表の国民公会議員、国王裁判では国王処刑に賛成票。新聞に保守的近隣小邦への革命輸出という意見を寄稿。一方で言論活動を通して非キリスト教化運動を推進。93年11月パリ司教ゴベルに棄教を説得。同月、ロベスピエールから非キリスト教化は外国スパイの陰謀と非難され、12月国民公会を追放。94年3月エベール派一斉摘発で逮捕され、24日処刑。
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7月8日
・幕府、追放者・欠落者が長崎に入って悪事を働くとして彼等の長崎立ち入り禁止を九州などの諸大名に命じる。
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7月8日
・北米、フレンチ・インディアン戦争開始。
フランス領ルイジアナ植民地にブラドック将軍のイギリス正規軍が侵入。
フランスはインディアンと共同しこれを迎え撃つ。
ウィルダネスの戦闘。
イギリス軍は大敗。ブラドック少将率いる2個聯隊約1,500人、フランス要塞フォート・デュケーヌ(現ペンシルヴァニア州西部)に向かう。
幕僚ワシントン資材調達ベンジャミン・フランクリン担当、馭者としてダニエル・ブーン(21)が参加。ブラドック軍後衛がモノンガヒーラ川浅瀬を渡りきる寸前にフランス軍の攻撃(ブラドック軍には地理に詳しいインディアン8人のみ)。
フランス軍は士官・兵士78人、民兵150人、友好インディアン637人。大混乱。
ブラドックは負傷、のち没。死傷者977人(全軍の2/3)。
ジョージ・ワシントン:
デュケーヌ砦遠征の際にはブラドックの幕僚となるが、ブラドックはインディアン相手に英国流の戦い方にこだわり、ワシントンがいくら「ここはアメリカだからその戦法では負ける」と進言しても聞き入れることなく、モノンガヒーラ川で不意打ちに遭い敗北を喫している。このときワシントンはダンバーとともに残った兵士たちを導いて冷静に基地まで連れ帰った。
ベンジャミン・フランクリンはデュケーヌ砦遠征隊の資材の一部を調達している。また、この遠征にはダニエル・ブーンも加わっていた。
のちに、イギリスはデュケーヌ砦のあった地をチャタム伯(大ピット)にちなんで、ピッツバーグ(「ピットの砦」を意味する)と改名する。
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7月16日
・郡上一揆。
藩庁より、庄屋・組頭36人が出頭を命じられる。
18日、庄屋・組頭36人は笠松代官所へ出頭する。
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7月21日
・郡上藩、笠松代官所に呼び出された庄屋・組頭36人は検見取り受諾を命じられる。彼らは、暫くの猶予を願い出て、郡中の意向を聞くため庄屋11人を郡上へ帰す。29日までに、庄屋11人と残りの庄屋百余人が笠松へ出頭する。彼らは、検見取りの受諾と16ヶ条のお墨付を返すように要求される。彼らは、足軽達に打ち据えられ耐え切れず「検見法」を受諾。
農民達は郡上郡南境の母野(はんの、美並村内)に陣取り「検見法」を承諾した庄屋達が郡内に入るのを食い止める。この時の小競り合いで橋詰村(白鳥町)庄兵衛が捕縛。郡上藩、藩の再通達では農民の反対があると懸念し、「検見法」は幕府の命令という筋書きを画策、幕府からの通達役として勘定奉行の部下で美濃笠松の代官青木次郎九郎を任命。
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8月
・米、英ブラドックの遠征に私的な立場で同行していたワシントン、ヴァージニア植民地軍の司令官に就任。
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8月6日
・アイルランド民族運動家ダニエル・オコンネル、誕生。
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8月12日
・郡上一揆。農民有志70余が那留ヶ野(白鳥町)の子持杉に集合し、傘連判状による同盟の約束。この頃から各村々で同様の連判状を作成。
翌13日より、江戸藩邸への直訴準備が始まり、代表40余が江戸に向う。郡上藩はこれを江戸表に報告し、江戸では農民を待ち受ける。
10月23日、農民40余の代表は江戸金森藩邸に訴状を提出するが、全員が金森藩別邸にを監禁される。郡上藩内の取り締まりも厳しく、江戸との連絡が取れなくなり、50日が過ぎても音信不通。
10月末、江戸の様子や直訴の結果を知るために剣村(大和町)藤治郎と栃洞村(白鳥町)清兵衛を江戸へ送る。
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9月
・ルソーの「百科全書」の項目に対して、ラモーが「「百科全書」の音楽に関する誤謬」を出版。
これを受けてルソーは「旋律の原理あるいは「音楽に関する誤謬」への回答」を執筆するが、出版せず。「ラモー氏が「「百科全書」の音楽に関する誤謬」と題する小冊子で主張する二つの原理を吟味する」と、それを書き直した「言語起源論」。
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9月4日
・スウェーデン、フォン・フェルセン伯爵、誕生。マリー・アントワネットの愛人。
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9月10日
・仏、ベルトラン・バレール ・ド・ヴュザック(平原派政治家、モンターニュ派協力者)、タルブの名家に誕生。高等法院高級官職を望むが地方出身者ゆえに道を阻まれ、トゥールーズで弁護士となる。
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10月14日
・ハンガリー、アーダム・リスト(フランツ・リストの祖父)、ラーゲンドルフに誕生。教会オルガニスト、合唱長。妻3人、子女25人。
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10月19日
・出羽が凶作のため、山形城下で打ち壊し。
22日、天童で打ち壊し。
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10月25日
・仏、フランソワ=ジョセフ・ルフェーヴル(後、ナポレオンの元帥)、オー・ラン県ルーファで誕生。父は軽騎兵連隊に所属する軍人(貴族ではないので、士官にはなれない)。
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10月末
・郡上農民の藤治郎・清兵衛、江戸着。代表団40名の監禁を知り江戸藩邸への嘆願は危険と考え、藩主金森頼錦の弟、井上遠江守へ代表団訴状と同じ訴状を添えた嘆願書を差し出す。
金森家江戸藩邸では2人の捕縛を企図、清兵衛は進んで捕らえられ藤治郎はかろうじて逃亡。
藤次郎は郡上に戻り、代表40人の様子、井上遠江守邸への直訴、栃洞村(白鳥町)清兵衛捕縛を報告。農民の不満は頂点に達す。
この頃、郡上藩は弾圧強化、逮捕者続出し、脱落農民も増加(5,000人の立百姓が700人に減少)、内通者も出る。
一揆推進派は寄合所を藩外の関の吉田(きった)のあたりに設ける。
この吉田観音で前谷村(白鳥町)ほか36ヶ村の百姓代表は再度、検見法反対の誓約を交し、幕府への直訴を決定。
11月26日、代表5人、江戸城大手門前で老中酒井忠寄(ただより)の行列に嘆願書をもって駕籠訴を決行。
5人は取り調べの後、宿預けとなる。
一旦は陰りをみせた一揆の勢いも、駕籠訴決行の知らせで再度盛り上がり、寝者の百姓大勢が詫び状を入れて一揆に参加、立者の数が急増。
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11月
・「百科全書」第5巻出版。ルソー、「二重唱」「エンハーモニック」など執筆。
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11月1日
・ポルトガル、リスボン港付近を震源とする大地震発生。大津波発生。6日間の火災。犠牲者1万数千人。
ポンバル侯は勢力的な対応(手当て、ペスト予防、犯罪防止など)を行い、都市再建計画(民間人に勝手に建設工事をさせない)を進める。
新興ブルジョアジーが都心に土地を入手、街は碁盤目状に区画され、貴族は山の手に追いやられる。
教会も他の建物と高さを同じに統一され、今日のリスボン旧市街に見られるポンバル様式が完成。
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11月2日
・オーストリア、マリー・アントワネット、女帝マリア・テレジアと夫フランツ1世の間に末娘としてウィーン・シェーンブルン宮で誕生。
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11月17日
・フランス王太子ルイ・フェルディナンドと王太子妃マリー・ジョゼフとの間に第4男プロヴァンス伯爵ルイ・スタニフラフ誕生(後のルイ18世)。
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12月
・冬、ルソー、 「新エロイーズ」のもとになる「ジュリ」を書き始める。
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