東京 北の丸公園 2012-08-27
*元亀2年(1571)
8月
・正親町天皇、綸旨により武田信玄に大仏殿修造について助力要請。
*
8月1日
・ファマグースト守備の英雄ブラカディン、トルコ人に残酷な方法で死刑。
21日、ファマグースト占領。トルコ人、キプロス島占領。
*
8月2日
・松永久秀、筒井順慶の大和辰市の要害へ軍勢を派遣。
4日酉上刻、久秀、辰市城を攻撃。筒井順慶・郡山の両方より後詰が到着、久秀は敗北。
討死衆は松永左馬進・松永孫四郎・松永久三郎・河那邉伊豆守・ 渡辺兵衛尉・松岡左近・福智某・赤沢蔵介・栄林院・竹田対馬守・豊田某・山崎久助・安倍某・ 山田某・中岡藤市兄弟・狛治部大輔・渡部采女、河内衆は多数。
久秀は大和多聞山城へ撤退。
6日朝、久秀、大和国信貴山城に移る。
筒井順慶、松永軍との戦闘で勝利し筒井平城・高田城・番条城・森屋蔵堂城などを回復。
*
8月12日
・浅井長政、朝倉義景に援軍を依頼。(下郷共済会文書)
*
8月13日
・武田信玄、下間頼慶へ、京都から本願寺・信長和睦を信玄が仲介するように下知が下されたので、龍雲軒・堀野左馬允を派遣して通達させると通知(本願寺文書」)。
*
8月16日
・信長、西尾光教へ、美濃多芸郡役を従来の如く安堵。
*
8月17日
・信長3万、岐阜城進発。
18日、木下藤吉郎の横山城に到着、布陣。
20日夜、大風で横山城塀櫓が吹落とされる。
26日、中嶋(小谷城と西50町にある要所山本山との中間)に布陣、1泊し、余呉~木之本の集落放火させる。浅井牽制(江南の一向一揆殲滅の為の陽動作戦)。
27日、横山城に戻る。
28日、横山城から丹羽長秀在番佐和山城(彦根市)へ移動。信長先陣、小川・志村(滋賀県神崎郡能登川町内)で一揆を攻撃。
*
8月23日
・丹羽長秀、上賀茂社に貰布禰谷山の領有を認める。長秀(佐和山)の支配地外であるが、12月14日、秀吉に対し、「賀茂之儀、拙者申次之条」と断る(「賀茂別雷神社文書」)。
長秀ら諸将が近江支配を分割した後も、入京直後の京都における政務の分担が生きているの。
長秀は、上賀茂社に関しては天正年間にも、信長の書に副状を発するなどの仕事を続けている(「賀茂別雷神社文書」)。
*
8月27日
・白井河原の激戦。
摂津高槻城和田惟政300~500程、三好方池田知正2,500~3,000と戦い敗北、茨木城奪取される。
荒木村重従弟中川瀬兵衛清秀、和田惟政を討ち取り、「鬼佐渡」茨木重朝も戦死(茨木氏滅ぶ)。荒木村重一党は茨木入城。
戦いは今の茨木市郡(こおり)付近であり、勝利した池田方は勢いに乗じて、里城・宿久城・茨木城を落とす。
高槻城も攻囲中に幕府から三淵藤秀・細川藤孝らの援兵が到着し、池田勢は退却。
和田惟政の息子惟長が辛うじて高槻城に戻る。高山右近は彼の配下で、この合戦の生き残り。
中川清秀は、和田惟政を討取り次第に頭角を現す。
池田方では、荒木村重が茨木城に入り、中川清秀は、呉羽荘(現池田市呉服町から宇保町付近)を手に入れる。茨木・吹田を手中にして、京都から西の幕府・信長方勢力を分断する形勢を担う池田家は、三人衆勢で更に重要な立場となる。
その後、三好三人衆と幕府・信長の主戦場は河内に移り、一進一退の攻防が続く。
河内での抗争の中心は、高屋城で、畠山昭高・遊佐信教などが幕府・信長方として防戦。
三好方池田家は、その後、次第に知正と村重の間にずれを生じ勢力を分かつことになる。
*
8月28日
・家康嫡男竹千代(14)、元服、徳川次郎三郎信康名乗る。浜松城内で能楽。
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿