2012年9月4日火曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(33) 「第2章 もう一人のショック博士 - ミルトン・フリードマンと自由放任実験室の探究 -」(その3)

東京 北の丸公園
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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(33)
 「第2章 もう一人のショック博士
- ミルトン・フリードマンと自由放任実験室の探究 -」(その3)

フリードマンの業績は・・・。
二〇〇六年にフリードマンが死去したとき、死亡記事の執筆者たちは彼の業績をどのように要約するかに苦心した。
ある記事は次のように書いた。
「フリードマンは自由市場、自由価格、消費者の選択、そして経済的自由の重要性をくり返し説いたが、今日われわれが世界規模の繁栄を享受しているのはそのおかげである」。これは部分的には正しいが、その世界規模の繁栄のありよう - 誰がその恩恵に浴し、誰が浴していないか、その原因はどこにあるのか、など - については、言うまでもなく論議が大きく分かれる。
だがフリードマンが提起した自由市場のルールと、それを課すための抜け目のない戦略が一部の人々に極端な繁栄をもたらし、彼らがそれによって国境も規制も税金も無視し、新たな富を築くためのほほ完全な自由を手にしたことは、もはや反論の余地がない。

フリードマンの思考様式と幼少期の体験
こうした思考様式のルーツは、フリードマンの幼少期に見出すことができる。
ハンガリーからの移民だった彼の両親は、ニュージャージー州ローウェイにある縫製工場を買い取って経営していたが、一家の住まいも工場と同じ建物の中にあり、それは「今日なら”搾取工場”と呼ばれるようなところ」だった。
こうした工場の経営者にとって、当時は一触即発の不安定な時代だった。
マルクス主義者やアナキストによって組合に組織された移民労働者たちは、安全規制や週末の休みを要求し、勤務時間後に会合を開いては労働者所有の理論について議論していた。
経営者の息子であったフリードマンは当然ながら、こうした議論に関してまったく異なる見解を耳にしていたにちがいない。
最終的に父親の工場は倒産したが、フリードマンは講演やテレビ出演の際にこの工場のことをしばしば話題にし、規制撤廃した資本主義の恩恵を証明するケーススタディーとして紹介した。たとえ劣悪で規制などまったくない職でも、自由と繁栄に向かうはしごの第一段目までは上ることができるのだ、と。

シカゴ学派の魅力
シカゴ学派の経済学の魅力の大きな部分は、労働者の権力に関する急進的な左派の理論が世界中で支持されつつあった時期に、経営者側の利益を守る方法を提示したことにあった。
そしてそれは左派の理論に負けず劣らず過激であり、また独自の理想主義的な主張に満ちてもいた。

フリードマンが約束する「個人の自由」
フリードマン自身の言葉によれば、彼の思想の主眼は低賃金で労働者を搾取する経営者の権利を擁護することではなく、可能な限り純粋な「参加民主主義」の形態を追求することにあるという。
自由市場経済においては、「個々人はあたかもネクタイの色を選ぶように投票できる」からだと彼は言う。
左翼の思想家が労働者に経営者からの自由を、市民に独裁者からの自由を、国家に植民地主義からの自由を約束したのに対し、フリードマンは「個人の自由」を約束した

それは市民を個人レベルに細分化して共同体としての企業の上に位置づけ、消費者選択を通じて絶対的な自由意思を表明できるようにすることを意味していた。
「とりわけ刺激的だったのは、当時マルクス主義が他の多くの若者を惹きつけたのと同質の魅力があったことだ」と、四〇年代にシカゴ大学の学生だった経済学者ドン・パティンキンはふり返る。
それは「純潔かつ見かけ上は論理的に完璧であり、理想主義的かつラディカルでもあった」。
マルクス主義者は労働者のユートピアを、シカゴ学派の経済学者は企業家のユートピアを思い描き、両者はともに、もしそれが実現すれば完全で均衡のとれた世界が生まれると主張したのである。

汚染されていない純粋な資本主義への回帰
問題は、どうやったらその素晴らしい世界に到達できるのかということだ。
マルクス主義者の答えは明白だった。革命によって現行のシステムを一掃し、社会主義体制と入れ替えるというのである。
だがシカゴ学派の答えはそれほど単純明快ではなかった。
アメリカはすでに資本主義国家だったが、彼らの見る限り、それは完全な資本主義とはほど遠かった。アメリカにせよ、資本主義経済とされている他のすべての国にせよ、シカゴ学派の経済学者から見れば障害だらけだった。政治家は、商品を買いやすくするために価格を固定し、労働者の搾取を抑制するために最低賃金を定め、すべての国民が教育を受けられるように国家の手に教育を委ねている。
多くの場合、これらの政策は人々のためになるように見えるが、フリードマンらはこうした措置が市場の均衡に重大な弊害をもたらし、市場のさまざまな信号が相互に伝達する能力を妨げていると確信し、モデルを使ってそれを「証明」した。

したがってシカゴ学派の経済学者たちは「浄化」すること、言い換えれば市場の均衡を妨害するこれらの要因を取り除き、自由市場を花開かせることを自らの使命としていたのである。

このためシカゴ学派の経済学者は、マルクス主義者を真の敵とはみなしていなかった。
問題の根源はアメリカにおけるケインズ学派、ヨーロッパにおける社会民主主義、そして当時第三世界と呼ばれた地域における開発主義の考え方にあるとされた。
これらの人々はユートピアではなく混合経済を信じているのだ、と。
シカゴ学派にとって混合経済とは、消費財の製造と流通における資本主義、教育における社会主義、水道など基本的事業の国有化、そして極端な資本主義を緩和することを目指すありとあらゆる法律とがごちゃまぜになった、見苦しい状態を指した。
宗教原理主義者が他の宗教の原理主義者や公然たる無神論者をしぶしぶ尊重する反面、うわべだけの信者を軽蔑するように、シカゴ学派の経済学者はこうした、さまざまな要素を組み合わせた経済学者に宣戦を布告した。
彼らが希求したのは厳密には革命ではなく資本主義的「改革」であり、汚染されていない純粋な資本主義への回帰だった。

(つづく)


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