川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(37)
「二十三 「つゆのあとさき」のころ」(その4)
「ドンフワン」の客。清岡進(流行作家)。
売文の俗物だが、この時代にすでに「流行作家」が登場しているのが面白い。漱石や鴎外の時代とは違う。秘書というかアシスタントというか、手足になる人間を二人もかかえ、夜な夜な銀座のカフェーにあらわれては遊興する。美しい妻がいるのに、女優を愛人にし、さらに、君江にも近づこうとする。昭和二年の円本ブームのあとにこういう「流行作家」が現われた。荷風はそれをカリカチュアして見せる。
さらに。赤坂溜池の自動車輸入商会の支配人、洋行帰りの舞踏家。車の輸入業者と、外国帰りのいまふうにいえばパフォーミング・アーチスト。ハイカラである。「ニジンスキイ」の名前も出てくる。
荷風は彼らをかなり戯画化して描いている。江戸情趣の残る新橋の花柳界で若き日を過ごした荷風から見れば、昭和モダンの銀座はどこか野暮ったく見える。「ハイカラ」の裏には「田舎臭さ」がある。
だから荷風は「日乗」のなかで、「欧洲諸国の古き都会の雅致ある趣は到底わが国には見る事能ざるべし」と書かざるを得ない。
震災後の東京のひとつの変化は、西への拡大である。震災で被害が大きかった下町や都心から、被害の軽微だった西東京へ人口が移動し、昭和のはじめには、現在の世田谷区や杉並区を中心に、「郊外」が成立していった。
「つゆのあとさき」は、この新しい「郊外」の風景も視野に入れている。
流行作家清岡進の老父清岡熙、世田谷の松陰神社の近くに住まわせている。清廉で地味な漢学者。帝国大学で黙々と漢文という「死文字」を教え、老荘の学を研究してきた。人と深く交ろうとはせず孤独を愛している。荷風好みの文人。駒込千駄木町に住んでいたが、大学の職を終えてからは、世田谷の豪徳寺近くに引越した。このあたりはまだ田園の雰囲気を残している。茶畠、杉林、竹薮、田と畑、茅茸屋根の農家、ところどころに見える西洋風の住宅。
久しぶりに訪ねてきた嫁(進の妻鶴子)に、熙が、「朝子か。さアお上んなさい。今日は婆やはお墓参り。侍助も東京へ使にやつて誰も居らん」という。このあたりが市中とはまた別の土地として意識されていた。
荷風は「つゆのあとさき」のなかに、この震災後次第に開けていく郊外を書きこみ、東京を重層的にとらえようとしている。
「下町」「山の手」に、新たに「郊外」が加わっている。
大正13年12月5日
「立冬以後日々快晴。気候温和なり。午後世田ケ谷村三軒茶屋を歩み大山街道を行くこと数町。右折して松陰神社の松林に憩ひ、壟畝(ロウホ、つちへんに龍)の間を行く。朱門の一寺あり。勝園寺の匾額を見る。門前の阪を下り細流を踰(コ)え豪徳寺の裏門に至る。老杉欝然。竹林猗々。幽寂愛すべし。本堂の檐に参世仏及び天谿山の匾額あり。豪徳寺は井伊掃部頑の菩提所なること人の知る所なり。松陰神社を去ること遠からず、又祠後の松林に頼三樹等の墓碑を見る。呉越同舟の感なきを得ず」
「つゆのあとさき」の世田谷は、荷風の平常の郊外散歩から描き出されている。
「静かな郊外と喧騒の銀座。銀座が郊外によって相対化されている。」(川本)
銀座の活況は、同時に銀座の大衆化でもある。
安藤更生『銀座細見』、「(震災後)銀座には未曾有の混乱が始った。柳と瓦斯は人々の記憶から消滅してしまった。『キング』と『現代』の読者が押し出して来たのだ」。
「荷風も震災後の東京が大衆化していっていることに自覚的である。」(川本)
「日乗」昭和4年3月2日。
「曇りて風寒し、爐邊に荀子を讀む、非十二子篇に綦谿利跂、荀以分異人為高、不足以合大衆明大分、の語あるを見る、今の人新聞掲載の通俗小説を呼んで大衆文学となす、大衆の語は荀子の篇中より取りたるものけつ歟、数年前大地震の頃には世人猶大衆の語を用いざりしがこの両三年この語大に流行す」
荷風によれば、「大衆」という言葉は震災後に広く使われるようになったという。
ここにも震災後の社会の変化があらわれている。「つゆのあとさき」の君江は、この新しく登場した「大衆」の一人である。
古き良き花柳界は、カフェーに完全にとってかわられた。
荷風は、「つゆのあとさき」でその変化を描こうとしている。
女たちは、君江をはじめとしてかつての花柳界の女とはまったく違った新世代である。
芸があるわけではない。情があるわけではない。ただビジネスライクな、割り切ったモラルがあるだけ。君江は十七歳の時に家を出て東京に来てから「この四年間に肌をふれた男の教は何人だか知れない程」というような女である。
「君江は同じ責笑婦でも従来の藝娼妓とは全く性質を異にしたもので、西洋の都合に蔓延している私娼と同型のものである」
従来の芸娼妓とはまったくタイプの違うドライな女が登場。
カフェーの女給のほうが時代の主流になりつつある。
「日乗」昭和6年2月13日
新橋の芸者置屋にいた少女が女給になったことが記されている。
それを受けて「つゆのあとさき」では富士見町の待合に来た芸者が、客に「お前、どこかで見たことがあるな。思出せないが。まさかカツフヱーでもあるまい」といわれ、平然と「いゝえ。さうかませんよ。この頃は藝者が女給さんになったり、女給さんが藝者になったり、全く区別がつきませんからね」と答えている。
「女の世界でも確実に大衆化が進んでいる。」(川本)
「ドンフワン」には「蒲田」にいたという女給もいる。
つまり、映画女優の卵が銀座のカフェーで働いている。映画女優も新しい職業で、流行作家の清岡進は、映画女優を愛人にしている。
カフェーの女給出身の女優が出てくるのも、このころである。
それまでの日本映画の女優というと花柳界出身が多かった。川田芳子、酒井米子、八雲恵美子、筑波雪子など草創期の女優には、花柳界の出身者が多い。
それが昭和に入ると変ってくる。カフェーの女給出身の女優がふえてくる。
小津安二郎監督『一人息子』(昭和11年)や『戸田家の兄妹』(昭和16年)に出演、戦後はテレビ『事件記者』の飲み屋ひさごのおかみ役で知られた美人女優坪内美子(美詠子)など、その代表だろう。彼女は、東京の小石川に生まれ、牛込高等女学校を卒業後、銀座のカフェーの女給となり、そこで人気者になり、昭和7年に松竹蒲田入りした。
また、広津和郎原作の風俗映画『女給』の続篇『女給(小夜子の巻)』(昭和7年、曾根純三監督)のヒロインに抜擢された北条たま子は、「日乗」にも登場する銀座のカフェー「サロン春」の売れっ子の女給だった。
あるいは、桑野みゆきの母親で、モダンガールの役をやらせたら右に出る者のいなかった桑野通子。彼女は、東京の芝の生まれ。生家はとんかつ屋で、三田高等女学校を卒業したあと、プロポーションがよかったので森永のスイート・ガールに選ばれ、赤坂溜池のダンスホール”フロリダ”のダンサーになっていたところを、昭和9年、松竹にスカウトされた。
「「つゆのあとさき」のカフェーの女給に、蒲田で女優の卵をやっていたという女がいたり、「文壇の流行児」清岡進に、杉原玲子という「活動写真の女優」を配したりしているのは、時代の変化を敏感に感受した荷風の工夫である。」(川本)。
「杉原玲子」という名前
広津和郎「女給」は、昭和5年に帝国キネマによって映画化された(監督曾根純三)。ヒロインを演じたのが水原怜子。大阪のカフェーの人気女給で、帝国キネマが『女給』製作するに当って全国のカフェーから主演女優を公募したときに選ばれた。「杉原玲子」は明らかに水原怜子のもじり。映画のような低俗なものには関心がないといっている荷風が、映画女優の名前を小説に借用している。
これを見ても、「荷風は決して孤高な隠棲者だったわけではないことがわかる。世捨人を装った隠士は、同時に、世俗の鋭い観察者だった。」(川本)
「花柳界がカフェーにとってかわられる。古き良き江戸が消滅し、これまでとはまったく違ったデパートとアドバルーンのモダン都市へと変貌していく。その変化に荷風は敏感である。決して「新しいものは嫌いだ」と不機嫌にいっているわけではない。荷風は、江戸の残り香を漂わせる花柳界の女たちに惹かれながらも、他方では、「つゆのあとさき」のヒロイン君江のような、震災後にあらわれた”新しい女”に心動かさざるを得ない。」(川本)
昭和6年にビクターから発売されて大ヒットした「女給の歌」(西條八十作詞、塩尻精八作曲、羽衣歌子唄)は映画『女給』の主題歌である。
その歌詞には「わたしや夜咲く 酒場の花よ 赤い口紅 錦紗のたもと ネオンライトで 浮かれて踊り せめてさみしい涙花」と、夜の女たちの悲哀が歌われていた。一見ドライに見える彼女たちも素顔に戻ると、「わたしや悲しい酒場の花よ」という悲しさを見せる。荷風は女給たちの悲哀に敏感である。「つゆのあとさき」の君江はたしかに「淫恣な生活」にとっぷり浸っているが、決して悪い女ではない。人を押しのけても生きていこうとか、男を手玉に取ってのし上がろうとする野心はない。むしろ可愛い女だ。自分で自嘲的に「わたし見たやうな女給なんぞは全く一時的の慰み物だわ」といったりする。昔の知人に会うと恥しそうに「とうとう女給になってしまったのよ」という。
荷風は明らかにこの君江を愛している。客観的に突き放すように書いてはいるが、君江のなかに「悲しい酒場の女」を見ている。
「日乗」昭和4年9月19日
カフェー擁護論。「今日の時勢を見るに女給踊子の害の如きはたとへこれ有りとなすも恐るゝに足らず、恐るべきは政治家の廉恥心なきことなり、社会公益の事に名を托して私慾を逞しくする偽善の行動最恐るべし、男子変節の害に比すれば女給踊子の密に淫を売るが如きは言ふに足らず」
表通りを生きる人間より裏通りに生きる人間を愛する荷風らしい女給と踊子の擁護論である。
「つゆのあとさき」の根無し草のような君江も、こうした日蔭や裏通りの人間に心を傾ける荷風によって明らかに愛されている。
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註3)
ライオンは現在の銀座四丁目角、サッポロビヤホールのところ、タイガーはその筋向かい、現在の鳩居堂並びにあった。
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