東京 北の丸公園
*正暦6年/長徳元年(995)
この年
・『今昔物語』(巻25-5)にみえるこの頃の「兵(つわもの)」説話
余五将軍・平維茂(これもち)が藤原諸任(もろとう)の奇襲を受けながら、これを討ち破る顛末。
その結果、維茂の武勇は、「東(とう)八ヶ国ニ名挙ゲテ、弥(いよい)ヨ並ビ無キ兵」とされたことが語られている。
この2人は、いずれも平将門を討滅した平貞盛・藤原秀郷の子孫にあたり、陸奥国では「二人ナガラ国ノ可然(しかるべき)キ者」といわれた「兵」だったが、「墓無キ田島ノ事ヲ諍(あらそ)ヒ」により、国司藤原実方(さねかた)の調停もかなわず合戦となったという。
この実方(歌人として著名)は、藤原行成との確執で左遷された人物で(『古事談』第2など)。長徳元年(995)、陸奥国司として陸奥に下向し4年後ここで没しており、この説話はこの時期のものということになる。
「兵」たる両人は、夫々の意地をかけて戦おうとする。
藤原諸任の側が、約束を違え維茂を油断させ、奇襲で勝利をおさめた諸任は帰途につくが、敗死したはずの維茂が兵力を集め油断していた諸任の軍勢を襲い、勝利する話である。
留意点①:
両者ともに、将門の乱の功臣の末裔で、貞盛・秀郷はそれぞれ五位の位階を与えられ、受領や鎮守府将軍に任じられ、軍事貴族の地位をかため中央政界への足場を築いた人物だった。
留意点②:
両人が 「国ノ内ノ可然キ兵共」であり、ともに「夜ル昼ル館ノ宮仕怠ル事」もなく、田島の争いについても国守の裁定が不可能であったとみえる。
陸奥にあっても、国守も一目置くような功臣の末裔が勢力を競い、これらは一国レベルでの武力発動の主体である。
両人が国司へ奉仕したのは、そこに国内での権益の拡大などのある種の期待があったからで、軍制からすれば傭兵に近い形態である。
軍事貴族には、維茂や諸任のような功臣の子孫にルーツをもつ者もいれば、これとは異なる形で地方に勢力を有する「兵」(同じく陸奥で勢力をもった安倍氏など)もいた。
軍事力という点では、中央では、①日常的な官職体系にもとづく武力(検非違使、衛府や馬寮の官人)、②王臣家の私的武力(武者的家人、随身など諸家兵士)がある。
これに加えて王朝国家期を特徴づけるものとして、③武芸を家業とした「都の武者」の武力(官職体系とは別に動員、臨時的、契約的武力)が加わることになる。
同じく地方においても、①の武力に対応する押領使・追捕使などの官制的武力、②権門の私兵に対応する国司(受領)の私的武力(「官散位の輩」)、③これらに対応する地方の武者(地方軍事貴族)があった。
このうち、中央・地方を問わず、①および②の武力が在来の律令系統のもので、③は、この王朝国家期を特色づける武力ということができる。かれらこそが「兵」とよばれた存在だった。
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・この年春頃から都の辺には疫病(赤斑瘡(あかもがき)=はしか)が流行だし、夏に入って極めて激しく、空前の勢いになった。
年初に14人いた公卿の中納言以上の者が、1年のうちに8人が病死。道隆(病名には異論あり)、道隆の弟道兼も含まれていた。
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・この年には道長娘彰子はまだ数えで8歳だった。そのため、しばらくの間、一条天皇の後宮には他の公卿の娘たちが入内する。
大納言藤原公季の娘義子(弘徽殿女御)、右大臣藤原顕光の娘元子(承香殿女御)、道兼と典侍繁子の娘尊子(暗戸屋女御)が入内し女御となった。
しかし、結局、一条天皇とこれらの女御との間には子どもが生まれなかった。
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2月
・長徳に改元
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・「淑景舎(しげいしや)、春宮に」(『枕草子』100段)
この月、東宮女御原子が、姉中宮定子の局に渡った折、娘たちに食事を出すと、「うらやましう、かたがたの皆まゐりぬめり。とくきこしめして、翁、おんなに御おろしをだに給へ」(お二人のお膳は揃ったようでうらやましい、早く爺さん・婆さん(貴子)におさがりを下さい)と道隆が一日中「猿楽言(さるごうごと)」(冗談)を言っている明るい光景を伝えている。
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