東京 北の丸公園 2012-09-12
*ノストラダムスの生涯(1)
先日、
「ノストラダムスの大予言があったが、地球はまだある」と述べ、原発ゼロの議論は現実的でないと指摘(民主党参議院議員藤原正司)
という記事で久々にノストラダムスの名前に触れた。
ノストラダムスについては、渡辺一夫さんの名著『フランス・ルネサンスの人々』(岩波文庫)で一章を割かれているので、これに基づいて彼の生涯を辿ってみる。
五 ある占星師の話
- ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)の場合
『西洋人名辞典』(岩波書店、1956年)では、
「ノストラダムス〔羅〕Nostradamus 〔仏〕Michel de Notredame 1503.12.14-66.7.2 フランスの占星家、医者。シャルル九世の侍医。占星術に基づいた韻文の予言書<Centuries,1555>は当時非常に尊重された。」
とある。
よく知られる「ノストラダムス」という名は、フランス名「ミシェル・ド・ノートルダム」の「ノートルダム」を、16世紀当時の学者たちの習慣によってラテン語式に呼んだもの。
ノストラダムスは、占星学によっていろいろな事件を予言したと伝えられ、今でもフランスでは有名である。
ゲーテ『ファウスト』第1部の初めの方で、ファウストが、深夜に述べる有名な独語に・・・、
「さあ、逃げ出さないか、広い世界へ。
それには、ノストラダムスの自筆による
この一巻の神秘の書があれば、
道連れとしては十分ではないか。」
というのがある。
近代・現代においても、ノストラダムスの信者たちは多く、16世紀のノストラダムスがフランス大革命やナポレオン没落までをも予言していると主張している。
また、これら諸家の説を総合し新説をも加えて、チャールズ・A・ワードは、ノストラダムスがナポレオン3世の運命までも予言したと説いている。
著者は言う。(引用、但し、段落を施す)
「ノストラダムスが占星学によって予言占術を行うことによって有名になった事実から考えられることは、欣びに満ちていたと思われやすいフランス・ルネサンス期が激しい社会的な混乱に満ちており、そのためにた人々が、いろいろな迷信占術に救いを求めざるをえなかったらしいということです。
合理的な物の考え方が徐々に人々の胸に宿り始めたあの時代でも、未知や不安の量は莫大深刻でした。
その上に、思想相剋や宗教戦争や疫病のために、一見華やからしいルネサンスにも、暗い懊悩の霧が立ちこめていたとも申せます。
歓喜がないわけではなく、大きな歓喜があったわけでしょうが、それは、多くの場合、個人の精神においても、社会文化においても、深い苦悶と不安とを伴っていたようにすら思われます。」
「このように多くの人々が、自分の未来や運勢について、知りあたわぬことを知ろうとしておりましたから、一般占術はもちろんのこと、占星学に携わっていた人々のなかには、私利のために他人の精神的弱点をねらうことをもっぱらとするいんちき師が出現する可能性が当然あったわけです。
ノストラダムスが、こうしたいんちき師であったかどうか? 私は、何とも言えません。
なるほど、ノストラダムスは、後述のごとく莫大な財産を残して他界し、人々は彼を目して神のような明知の人としましたし、その名声も財宝も、占星学によって作られたと申せます。
しかし、それだけで彼をいんちき師とするわけにもゆきません。
仮にいんちき師だったとしても、同類の占星学者をはるかに引き離した大成功の裏には、人並みすぐれた才能なり力量があらねはなりません。
そうかと言って、ノストラダムスを真の大予言著とも断言できますまい。
今まで残されている彼の予言の文面は、我々から見てあまりに曖昧であり、その上奇怪すぎる予言伝説がありすぎるからです。」
ノストラダムスの予言のなかで、当時の人々に衝撃を与えたのはフランス王アンリ2世横死の予言。
1555年5月4日に上梓した『予言集』中の『第一・詩百篇』第35番の四行詩に、
「老いたる獅子に、若きは打ち勝たん。
いくさの庭のなか、一騎討のはてに、
黄金の檻のなかにて、双眼をえぐり抜かん、
二つの破片の一つは。しかして死せん、酷き死。」
がある。
(*)『予言集』はその後も増補されている(1556年、1557年、1558年、1560年)が、四行詩を百第集めたものが、一つの『詩百篇』(サンチュリ)と題され、この幾組ものサンチュリが一つの『予言集』に収録されている。初版の1555年の『予言集』は、七つのサンチュリによって構成されている。
1559年、アンリ2世は、王妹マルグリットとサヴォワ公フィリベール・エンマニュエルとの婚約(及び王女エリザベットとイスパニヤ王へリーベ2世との婚儀)を祝うために、6月28日(水)から、サン・タントワヌ街で数日間にわたる盛大な野仕合を催させた。
そして、7月1日午後5時頃、王自身も王廷附スコットランド儀杖隊長ガブリエル・ド・モンゴメリーと手合せし、激しい打合いの末、モンゴメリーの槍が折れ、その破片が(あるいは残りの部分が)王の右限(あるいは右限近く)を貫く。
そして、王は、7月10日に没する。
著者はこう書く。
「先に掲げました四行詩とアンリ二世の致命傷との関係は、漠然とした相似の範囲を出ないように思いますが、すでに占星学者として声名のあったノストラダムスのこのような詩句は、人々によって否応なしに予言と見なされてしまわねはならなかったのでした。
十六世紀の記録作家プラントームも、『アンリ二世記』(エルゼヴィール双書版全集第四巻第二四頁以下その他)に、このふしぎな予言に言及しています。」
ノストラダムスは、アンリ2世の次の王フランソワ2世(アンリ2世の王子)の死をも予言したらしい(「第十・サンチュリ」第39番四行詩)。
1560年11月17日、この若い王が教会内で悶絶し、12月5日(木)に没した時、ヴェネツィヤ公国の大使ミキエリもトスカナ公国大使トルナブオーニも、公文書をもって、フランソワ2世の死が占星術師ノストラダムスの予言通りだった旨を報告している。
著者はこう書く。
「しかし、右に掲げた四行詩を見てもわかるように、ノストラダムスは、どんな相似的な事件にも当てはまるような曖味なことを、いかにももったいぶって書いているらしくも思われます。
彼が謎詩を作るのが上手であったり、換字変名(アナグラム)を用いるのを好んだりしたことは、こうした『予言』をするのに、非常に有利な才能だったかもしれません。
ピエール・ピヨブの説によりますと、ノストラダムスは、まずフランス語で文章を作り、それをラテン語に訳し、更にフランス語に再訳して、文体をひきしめ、表現に陰影を与えようとしたらしいとのことです。
そして、こういう工作が、いんちき師の技巧なのか、あるいはやむにやまれぬ創作欲・表現欲の結果なのか、あるいは単なる趣味のいたすところなのか、私には全くわかりません。」
(つづく)
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