2012年11月20日火曜日

長和4年(1015)閏6月 大内守護源頼光、三条天皇より念珠を下賜される

東京 北の丸公園
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長和4年(1015)
2月
・この月、道長五十歳の賀を五大堂で行なう。
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4月29日
・道長、三条天皇に退位を要求
「資平(実資の養子)が、昨日ある人が天皇にあることを促したが、天皇は不承知だと仰せられた、と言った」(『小右記』)とあり、おそらく道長が退位を求め、天皇が拒否したことを指していると思われる。
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6月
・この月、疫病のため右京花園に今宮社が建立され、多数の人士が参集して御霊会が挙行されている(『小右記』)。
これより先、長保3年(1001)の疫病では、紫野で疫神をまつる御霊会が行われ、その時には木工寮と修理職が神殿三宇を作り、以後ここは今宮社とよばれるようになった(『日本紀略』)。
この二つの今宮神社(紫野今宮社・花園御霊社)は、以後長く平安京住民の信仰を集めていった。
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閏6月
・源頼光と大内守護
この月、三条天皇は長年の奉公に対し源頼光の私的な法会で念珠を下賜した
長く蔵人・殿上人であった頼光は「大内守護(おおうちしゆご)」として内裏清涼殿の殿上の間に詰めて天皇を守護した。

源経基の長子満仲は蔵人・左馬助として在京勤務し、村上天皇の鷹狩りの伴をする御鷹飼(おたかがい)になり、天皇の側近武士として仕えた。
満仲の長子頼光も円融天皇の蔵人となり、三条天皇の26年に及ぶ皇太子(東宮)時代、東宮大進(だいしん)・権亮(ごんのすけ)として仕え、三条天皇・後一条天皇の2代にわたって内蔵頭(くらのかみ)・殿上人として奉仕し、正四位下(しようしいげ)にまで昇進した。

頼光は満仲から摂津国多田を受け継ぎ、子孫は摂津源氏を称したが、頼光嫡流は代々「大内守護」の地位を世襲し、公卿・殿上人との交流を通して歌人としても豊かな才能を示した。
治承4年(1180)、以仁王を奉じて平氏打倒の兵を挙げ、宇治平等院での合戦に敗れて自害した頼政は、平安末の王朝歌壇の重鎮であった。

内裏警固の変遷:大内守護と滝口
9世紀、内裏の警固は近衛府の任務であり、毎夜、近衛将曹(しようそう)が、宿直する近衛官人・舎人の姓名を、弓場殿(ゆばどの、校書殿東廂北二間(きようしよでんひがしびさしきたにけん)の前方に張り出した建物)で近衛大将に報告する宿申(とのいもうし)が行われた。

9世紀未、天皇御在所である清涼殿の警固は蔵人所が管轄するところとなり、殿上の間に四位・五位の殿上人が交替で宿直し、滝口の武士(以下、滝口)が清涼殿東庭(とうてい)北東の滝口(御溝水みかわみずの落ち口)近くにある渡廊(わたりろう)を詰め所(滝口の陣)に宿直警固に当たるようになった。
近衛府は清涼殿の警固から排除され、左右近衛陣(日華につか門・月華げつか門)の警固と内裏夜行(やこう夜間パトロール)に限定されることになった。

将門や純友の反乱の後、政府首脳は登場したばかりの武士の処遇を誤れば、彼らの大規模反乱を誘発することを悟って、論功行賞による大量任官が行われた。
藤原秀郷の下野・武蔵両国守、平貞盛の右馬助(うまのすけ)を筆頭に、多くの勲功者が衛府(えふ)や馬寮(めりよう)の官人に任じられた。
政府は衛府任官者に期限内に上洛することを要求し、それに従わない衛府任官者に対して上洛を督促している。
延喜勲功者や承平勲功者に現地居住を認めたことが将門・純友の乱の原因の一つであったことを見抜いていた政府は、衛府官人になった勲功者たちを在京勤務させる方針で臨んだ。

一方、将門や純友の惨めな末路に軍事的抗議の無意味さを悟った武士たちは、宮延社会の中で検非違使や受領を歴任する在京武士としての足場を固めていった。

摂関院政期、史(し)・外紀(げき)、八省の丞(じよう)、蔵人・検非違使などを勤続して叙爵された五位どまりの実務官人を「諸大夫(しよだいぶ)」と呼び、公卿・殿上人らから区別される貴族下層を形成していたが、源氏と平氏、利仁流(りじんりゆう)・秀郷流藤原氏の一部は、このような「諸大夫」の地位を獲得し、受領になって蓄財することを夢見て在京勤務に励んだ。

滝口は、天皇即位にあたって摂関や公卿らが家人の中から推挙し、蔵人所で射芸の試験を受けて採用された。
定員は初め10人だったが、しだいに増員されて白河天皇のときには30人になった。
滝口になるのは必ずしも武士ばかりではないが、利仁流藤原氏、摂津渡辺党の武士たちのように滝口を世襲する家もあった。平将門のように、源平の武士たちにも若いとき滝口を経験したものは多い。

殿上人・滝口は宿直するにあたって、名対面(なたいめん)と呼ばれる点呼を受けた。
まず天皇御前に伺候する蔵人が殿上人一人一人に「誰ぞ」と問いかけ、殿上人らは順次、姓名を称(とな)える。ついで御前から出てきた蔵人が、天皇御前の東庭に伺候している滝口に背を向けた(すなわち天皇の方を向いた)姿勢で、滝口の名対面を行う。蔵人の咳払いを合図に滝口が鳴弦(めいげん、後述)を二度行ってから、蔵人が滝口一人一人に「誰ぞ侍る」と問い、滝口一人一人が姓名を称え、終わると蔵人が天皇に見参(出欠)を報告する。
近衛府の宿申が宿直者全員の名前をまとめて報告するのに対し、滝口の名対面は宿直する滝口一人一人が天皇御座所の前で点呼に答えるのである。
それは滝口一人一人が天皇に直接奉仕する関係を象徴している。武士たちの奉公観は、若いころ滝口を経験することによって形作られた。

鳴弦は、弓の弦を手で強く弾き鳴らして邪気を追い払う所作であり、天皇病中・入浴中、皇子出産時などにも行われた。
『平家物語』に、堀河天皇が夜ごと何かに怯えるので、源義家が紫宸殿の広縁(ひろえん)に伺候して鳴弦三度ののち大声で「前陸奥守源義家」と名乗ったところ、宿直の殿上人・蔵人たちは「皆身の毛よだって」、天皇はすっかり直ったという話がある。

滝口の鳴弦・名対面は、天皇の安全を脅かすすべてのもの(物理的脅威だけでなく物の怪など心理的脅威も)から自分たちが天皇を護るのだという、宣誓にはかならない。

『枕草子』の中で清少納言は、「殿上の名対面こそをかしけれ」として、参上する殿上人らの足音、鳴弦の音、ざわざわ出て来る滝口たちの沓の音、蔵人の点呼の甲高い声、点呼の不手際を笑う滝口たち、などをあげ、女官たちが思いを寄せる殿上人の名乗りに胸をときめかせ、名乗りの善し悪しを批評し合うさまを軽妙に描いている。
これらの音・声・笑い、そして実際に宿直警固につくことが、漆黒の閥の中で天皇や后や女官たちを安心させ、安らかな眠りにつかせた

大江山の「酒呑童子」退治の説話で有名な源頼光の四天王の一人、渡辺綱(わたなべのつな、村岡五郎と決闘した箕田源二宛の子)の子孫たちは滝口を世襲し、宇治合戦では唱・競ら渡辺党の武士が源頼政に従って戦死した。
「大内守護」頼光嫡流は滝口を指揮して天皇を守護し、この指揮関係を通して渡辺党ら滝口を郎等化していった。
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