より続く
慶応4年(1868)
2月16日
・松平容保・家督を相続した養子喜徳ら会津藩士、江戸を去り会津へ。江戸城の武器持出す。会津藩家老梶原平馬(26)、幕府(勘定奉行)に金を借り、横浜で鈴木多門等と小銃800挺・弾薬他を購入。平馬ら300名は、武器弾薬を購入し、国許へ送るため藩士の帰国には従わず江戸へ留まる。3月23日、アメリカ船で新潟上陸。
庄内藩主酒井忠篤も帰国。ただ1人残った桑名藩主松平定敬(容保の弟)は歴代桑名藩主菩提寺の深川霊厳寺に入って謹慎。桑名藩士主戦派20数名は藩に迷惑をかけぬため脱藩。江戸残った300余名の桑名藩士間ではまだ恭順・主戦の論議が続く。徳川家は、謹慎中とはいえ、松平定敬を江戸から遠ざけたい考え、やむなく飛び地の越後柏崎へ移動せざるをえない情勢となる。3月16日、恭順派藩士等100名と共に柏崎へ向う。
・堺事件。土佐藩堺軍監府(軍監杉紀平太)と箕浦・西村両隊、大坂に向かい、長堀藩邸に入る。取調べが始まる。全員73名中、発砲したと答えた者29名。
・奥羽鎮撫総督沢為量名で岩倉具視宛に、会津藩松平容保・庄内藩酒井忠篤から助命嘆願ある場合の処理につき伺い。岩倉は大総督府に指示に従うべしと回答。翌日、大総督からは容保の「死謝」、酒井は「松山・高松同様」の扱いと沙汰。会津藩処分方針の正式表明。大総督府参謀林通顕の独断。
2月17日
・勝海舟、軍艦奉行から海軍奉行並に任命。
・堺事件。朝廷、容堂父子に堺事件を「万国之公法」による善処沙汰。
・政府、各国代表の参内を布告。同時に再度、外国和親に関する諭告を示す。
・内国事務掛大久保利通、京都より下坂。18日、同中根雪江も下坂。堺事件処理もあるが、大久保にとっては、大坂行在所の下見が主目的。
・権田直助・落合源一郎の説得により碓井方面への分遣隊引き上げを決め、丸山梅夫(30)が和田峠へ出発。笠取峠で上田藩士に捕縛。上田城の牢に収監。
丸山梅夫(前名:金井清八郎、本名:丸山徳五郎(久成))。信州上田の房山村の大庄屋丸山忠右衛門の子。野州の出流岩船の挙兵のとき、竹内啓の隊にいた。姉の奈類子の学問のカは弟より上にある。夫は上田城下の海野町で酒造と呉服太物、上を商標とする豪商上野屋の主人の斉藤謙助(変名:科野東一郎)で、文久元年5月弟元次郎に家督を譲り、医師と称し、薩邸糾合所で浪士隊の大監察をやり、焼討を突破して翔鳳九に乗組み、それから赤報隊に参加。しかし、途中で京都へ行き戻らなくなる。上田にいる妻奈類子は夫が京都に留まったのを喜び、弟の丸山梅夫にも、京都に留まるべきだ、「相楽さんは事を誤る憂いがあるのではないか」と言う。
丸山は、笠取峠近辺で、上田藩士の正木才三郎指揮する数名に待伏せされ捕縛、上田へ護送され、牢屋小路の獄舎に投げこまれる。だ8月20日釈放言い渡されるが、9月になってようやく釈放。9月16日、上田城下で藩士に袋叩きにあう。明治2年7月12日付で伊那県小監察に任命(伊那県大参事は落合直亮)。疑獄に巻き込まれ、落合は失脚、丸山も明治4年6月13日付で謹慎処分。後、上田で商業。町政に尽力、銀行家になり町の名誉職も務める。明治35年8月3日、64歳で没。
・信州追分戦争
赤報隊討伐決意の小諸藩・御影陣屋の軍勢100、追分に向う。一方、横川の関所を安中藩より引渡させた赤報隊1番組、小諸藩の謀略に引掛り、金原忠蔵ら11名が碓氷峠より追分に向かい、この日宿泊。未明(午前1時)、金原ら、包囲・襲撃される。金原重傷、後、自刃(31)。急を聞きつけた大木四郎・西村謹吾らは追分に駆けつけ、小諸藩兵らが逃亡したあとの油屋の入る。18日、下諏訪に向けて出発。桜井常五郎らの隊は追手に遭遇し桜井ら8人が捕縛(内5人放免)。大木・西村の隊は岩村田藩に捕われる。
小諸藩牧野家は、松代藩真田家から2月10日付の総督府回章が来たのをみて、牧野八郎右衛門に不満を持つ政敵加藤六郎兵衛は、重臣牧野隼之進、用人、家中の目星しい者を説得し、「金穀献納は失敗なり」と攻撃。藩の輿論は、きょう導隊討つペしと発展し、御影陣屋の元締綿貫庄之進の働きかけで、小諸藩・御影陣屋聯合が出来る。更に、岩村田藩、上田藩を、竜岡藩、安中藩を誘うことにして密使を送る。岩村田藩だけが承諾ととれる返事を寄越す。小諸藩は、討伐を17日深夜と決定し、小諸藩から100、御影陣屋から農兵200を出す事で合意。主将は物頭村井藤右南門、副将は高栗省吾・大橋某。集結地点は三ツ谷村(現、長野県北佐久郡小沼村三ツ谷)。
赤報隊1番組金原忠蔵は、小諸藩と打合せのため碓氷峠を上がって来た安中藩の和田紋右衛門・久保庭谷五郎に対し、横川の関引渡しの談判を行い、両人を説破、関所引渡しをさせる事で引返させる。小諸藩は、碓氷峠の赤報隊1番組の勢力を分散させるため、「中之条陣屋が不穏」との風雪を作る。金原忠蔵は、この謀略にかかり、大砲組11人を率い、鎮撫のため峠を下り、17日夜は追分宿の大黒屋新太郎方へ泊る。
17日午後、西村謹吾が碓氷峠に駆けつけ、赤報隊への誤解を解く為には下山して下諏訪で謹慎するべきと説得。桜井常五郎はこれに強硬に反対するが、この日のうちに下山(竹内健介・神道三郎は用があって外出、丸尾清・北村与六郎は横川の関を受取りに行っており、下山の際にはいない)。この日は軽井沢宿の佐藤織衛他1軒に泊る。夜明け、宿の者が追分に戦争があるといって騒いでおり、追分は昨夜金原忠蔵隊が泊っている筈で、金原隊に関りあると判断し、隊を組んで急行。
18日未明九ツ半頃(午前1時)、大橋某に率いられた小諸藩兵・御影農兵100人が大黒屋新太郎方を囲む。外の様子に不審を起した大黒屋の者が覗いて驚く。金原忠蔵は、隊士に服装を整えさせ、家の者や客に、「外へ出るな、外を覗くな、飛道具でやられるぞ。表と裏の入り口に近い処にもいるな、流れ弾丸が入ってきても届かぬ処におれ」と避難を教え、隊士には、「敵は何者か判断がつかぬが、信州の不勤王藩の暴挙であること疑いない。偵察したところでは、敵は百人内外で鉄砲十挺を持っている。諸君は一人ずつ行動せず、自分が命令したとおり駈引すること。不幸にして重傷を負った場合は、相楽総裁の日頃の訓戒をまもり、立派な最期を遂げること。しかし、こんなことぐらい何のそのだ。昨年十二月の三田の焼討に比べれば、事、小なりだ」と、注意を与え脱出の機会を待つ。外では大橋副将が指揮して3段構えの攻撃隊形をとる。第1列は小銃隊(御影の農兵が主)。第2列が竹槍(農兵中心)。第3列は藩兵ばかりの抜刀隊。大橋は、「まず鉄砲を打ちこむ、これに驚いて敵は逃げ出す、それを鉄砲で射ち殺し、逃げ遅れた奴は槍で突刺し刀で斬る」と指示。大橋はまず鉄砲を何発か打ち込ませるが、家中は静かなまま。大橋は、敵は裏から逃げると思い、若干の兵を裏へ移動させる。これを見た金原は、機会は今と、表口から一斉に素早く出て、殿りは金原自身が行う。第1列の農民隊は焦って撃つものの命中せず。
槍隊・刀隊の幾人かが、遅れた者を突こう斬ろうとすると、金原らが引返して来て追い払う。金原は味方を励まし、引揚げを急ぐ。街道筋で振返えると、姿は見えないが追跡は確認できた。敵は駈足をやっては止まって射つ、槍隊と刀隊が威嚇の声を送る。そのうちに敵の照準が確かになってくる。新しい同志の西尾鉄太郎が命中弾をうけ斃れ、小林六郎その他が負傷、信州飯田出身の熊谷和吉が胸に貫通銃創をうけ戦死。更に、関口猶伴が戦死。薩州人の竹内健介も、この時、農兵の射撃に斃れたという。そのうちに金原忠蔵が射たれて重傷を負う。金原は、隊士の市川金太郎を派遣して、この事件を下諏訪の本部に報告させる。
19日午後2時頃、市川は下諏訪の赤報隊へ着き、渋谷総司が早駕籠で出先の相楽にこの事を伝える。残りの4人が、重傷の金原を担ぐ。4人は途中で、金原を民家の納屋へ担ぎこんで、血止めの布を巻き代え、一息入れる。その頃、小諸と御影の合併兵は、追撃を中止し、追分宿へ引返す。
その一方で、碓氷峠を下山した大木・西村・川崎らと、桜井常五郎・中山仲らが、別々に進むうちに、其青な顔の小林六郎がやって来るのに出会う。小林は追分の戦闘を報告し、「味方に戦死傷がある」と伝える。
大木四郎、西村謹吾らは、清水定右衛門隊・大藤栄隊・今大路藤八郎隊と協議し、斥候を出してその後から急行。斥候の一人が、「金原氏が死に瀕している」と報告。大木・西村は急ぎ、農家の納屋にいる金原忠蔵と対面。金原は、「重傷で生命を保つことが到底できない。願わくば大木四郎君の介錯を乞いたい。」といい切腹。31歳。
大木・西村らは4人に、「金原君の首級を葬れ」と言い置き、隊を率い追分に前進。追分の油屋で酒を飲んでいた藩兵・農兵のところに、沓掛方面の物見が敵来襲を告げると、兵はこぞって逃げ、指揮者も巻き込まれて逃げる。大木・西村らは大黒屋に本部を置き、応戦体制をとる。しかし、大木・西村らは元々下諏訪で謹慎する積りでおり、敵の来る気配もないので。下諏訪へ出発。その後、小諸・御影の藩兵・農兵300がやって来て、3方面に分れて追撃し、そのうち、沓掛方面に向かった御影陣屋の綿貫庄野之進の隊が、桜井常五郎・中山仲の隊30人と遭遇。桜井隊の「信州新附属」の者は一斉に逃亡し、隊長桜井と隊員6人が残るのみとなる。桜井は重症の痔を患っており動けなく、6人を先に別に行かせる。
横川で安中藩から関所を受取ろうとしていた丸尾清・北村与六郎らは、ぐずぐず引伸ばす相手の様子に不審を抱き、ひとまず引揚げることにし、横川に出て、その晩は坂本宿に泊る。そこへ松井藤七郎が来て、本部引払い、下諏訪引揚げを伝える。翌日、出発しようとすると、安中藩の山本唯之進率いる一隊が四方に潜み、前後遮断して生捕りにかかる。丸尾清、北村与六郎、松井藤四郎と従者1名が戦死。
追分から下諏訪に向う大木・西村らの隊から、脱走逃亡落伍が多く出て、追分から1里半の小田井宿近く鵜縄沢(現、北佐久郡御代田村小田井字鵜縄沢)に来た時には20人足らずとなる。ここで、岩村田藩家老田中禎助が「時分どきなれば、弊藩において食事をされよ」と誘う。
この時まで残った者:西村謹吾則孝(伊勢亀山)、大木四郎秀美(秋田)、川崎常陸秀老(水戸)、西野又太郎美温(美濃岩手)、清水定右衛門盛直(伊賀上野)、今大路藤八郎光明(大垣)、大藤栄実吉(宇都宮)、山口金太郎忠正(不明)、信沢正記孝則(駿河)、赤松六郎正行(美濃関ヶ原)、三浦弥太郎国重(江戸)、永井次郎正里(不明)、矢口一郎常元(不明)、真柴備吉平(不明)、近藤俊輔照明(駿河田中)、松岡造酒允致義(不明)、笹田宇十郎正芳(甲府)、佐々木次郎綱信(信濃善光寺)。西野又太郎・永井次郎・佐々木次郎3人以外の15人は、薩邸以来の同志。ゆっくり追尾してきた小諸藩兵は、岩村田藩へ「浮浪の徒」引渡しを要求するが、岩村田藩家老田中禎助は拒絶。
岩村田藩家老代理牧野林平は、西村・大木ら18人に、2月10日付総督府回章について語り、もし下諏訪へ行こうとしても小諸藩の攻撃が予想されるので、総督府の再命あるまで、岩村田に滞在するよう勧める。西村らはその好意を喜び、礼を述べ、その後合議して、18名連署の誓約書を差出す。また、総督府へは嘆顕書を、相楽へは報告書を出す。総督府への嘆願書は握り潰される。
2月18日
・相楽総三、美濃大垣の大垣総督府で熱弁。19日、2月10日付赤報隊追討令取消し。
その日、「其方並に同志の人数薩藩へ委任致し候条、右藩の約束を受けて進退致すべき旨、御沙汰候也、東山道総督府参謀」という書付が相楽と附属の藤井誠三郎とに渡される。
・会津藩重役連名(田中・神保・梶原・上田・内藤・諏訪)の朝廷宛の歎願書、松平春嶽に提出。
・京都でイギリス公使館付医師ウィリスの治療を受けた山内容堂、堺事件に対する遺憾の意をロッシュや諸外国代表に伝えるよう、ウィリスと同行の公使館書記官ミットフォードに依頼。19日、伝言はロッシュに伝わり、21日、ロッシュはパークス宛礼状を書く。
・17日に日本政府から引渡された7名の遺骸と合せ、11名の埋葬式が、神戸居留地東南隅の外人墓地で行われる。
2月19日
・フランス公使ロッシュ、大坂沖碇泊中のヴェニス号艦上で伊達外国事務総督に堺事件に関する5ヶ条の賠償要求手交。20日、英米普伊公使、5ヶ条受入れ勧告。
①犯人20名(仏人ヲ殺害セシ者残ラズ」「此書面京師へ届キシ後(翌20日を想定か)三日ノ内」(23日まで)の刑執行)の斬首、②被害者家族扶助料として15万ドルを土佐藩から支払うこと、③外国事務局の親王(山階宮)のフランス船へ乗船しての謝罪、④土佐藩主の来船しての謝界、⑤武装土佐兵の開港地への立入禁止。
・京都裁判所、設置。
・前福井藩主松平慶永(春嶽)、政府に対するこの日付け建白書で、東征軍の進撃停止を力説。
慶喜が伏罪謹慎している状況で東征を進めるならば、旧幕臣の過激な者は憤激し、「幾千人一心」となり、官軍が諸藩混成軍で「百人百心、千人千心」の情況では、勝敗は測り知れない。また、内戦は「天下人心の向背」にもかかわる。
内乱突入直後から摂津・播磨に一揆が発生、3月頃まで不穏な情勢が続き、2~3月、信州~上野・武蔵一帯に一揆・騒動が続発、内戦に伴い民衆蜂起が激化する険悪な情勢。
・中島三郎助(48)末男与曾八、誕生。
2月20日
・カルカッタ、「アムリト・バーザール・パトリカー」紙創刊
・東山道先鋒の大垣・薩摩軍、大垣発。21日、中軍の因幡・土佐・長州軍、大垣発。同日、殿軍の彦根・高須・西大路軍、大垣発。
・人事異動。内外国総督の名称を「督」とし、その下に「輔」「判事」をおく。外国事務局「督」は議定山階宮晃親王、「輔」に議定伊達宗城・参与東久世通禧、「判事」に参与岩下与平・町田久成・伊藤博文・五代友厚・寺島宗則・井上馨・井関盛良。参与総裁局顧問後藤象二郎・木戸孝允・小松帯刀を外国事務掛兼務とする。
・山内容堂(47)、議定・内国事務総督辞任。かねてより病気のため願い出ていたが、今回の堺事件の責任をとったもの。
・庄内藩主酒井忠篤、江戸を去り帰藩。
つづく
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