より続く
慶応4年(1868)
3月1日
・近藤勇(若年寄格)ら、土方歳三(寄合席格)と共に甲陽鎮撫隊率い江戸出発。甲州へ向かう。お手許金5千両、大砲2門、小銃500、兵200(勝沼着時には120)。2日、多摩郡府中に泊。
・奥羽鎮撫総督の陣容が最終決定。総督に九条道孝、副総督に沢為量と醍醐忠敬。
・山国隊、上諏訪着。本営は下諏訪。
・板垣隊、下諏訪着。東山道隊本隊は中山道、因・土藩隊1400は甲府へ進軍決定。2日、板垣退助率いる東山道先鋒枝隊(土・因州隊)、甲府へ出発。3日、甲府着。4日、甲府城入り開城。
甲州(天領)は東海道軍の管轄であるが、東海道軍は甲州には対処せずに江戸に向かう。しかし、東山道軍に甲府城の不穏な動きの情報が入り、東山道軍参謀伊地知正治・板垣退助は諏訪で軍議。2日、板垣が土佐・鳥取軍主力の別働隊を率い甲州制圧・甲府城接収に向う。板垣率いる別働隊は甲州街道を急行、4日、甲陽鎮撫隊よりも先に甲府に到着、直ちに甲府城守備の旧幕臣に開城を勧告。甲府城に篭る柴田監物・保々忠太郎等の抗戦派旧幕臣は甲陽鎮撫隊との合流を望み、近藤に早く甲府城に駆けつけるよう書状を出すが、板垣隊に甲府城を囲まれ降伏開城。
・衝鋒隊、甲府を出発。武州桶川の大雲寺に宿営。
・小栗上野介、群馬郡権田村東善寺着。/2/28.江戸発。/3/4.屋敷に数千の暴徒押寄せる。/4/5.捕われ斬首。
3月2日
・天童藩主織田信学、奥羽鎮撫史先導役に就任。信敏が藩主を継承。
・徳川慶喜、明治天皇謁見許され宮城入り。
・岩倉総督府、樋橋村の赤報隊の相楽以外54人、呼出し。下諏訪で捕縛。下諏訪明神の並木に縛り付けられる(夕方、一部は連れ去られる)。相楽ら4人が本陣、西村・渋谷ら20余は脇本陣、明神の並木に20余が縛られて夜を明かす。
3月3日
・相楽総三(30)と同志ら8名、斬首。下諏訪。他は追放等処分(鬢罪追放14名、追放30余名)。
・岩倉総督府、下諏訪発。この日、和田泊。4日、岩村田入り。
・奥羽鎮撫使一行(総督九条道孝・参謀世良修蔵)、京都発。11日、天保山より仙台松島に向けて出航。
・因幡藩参謀河田左久馬、山国隊長兼務。藩士那波九郎左衛門は組頭、藤野斎は隊中取締方となる。
・(新3/26)パークス、参内。紫宸殿で天皇に謁見。
・河井継之助、江戸呉服橋の藩邸を総引き払いとする。江戸藩邸の宝物類を売却。当時日本には3門しかなかったガトリング砲2門を含め多くの銃火器を購入。
・新撰組、与瀬に泊る。4日、犬目に泊。
3月4日
・パークス襲撃の三枝蓊、斬首。
3月5日
・甲陽鎮撫隊、駒飼に布陣。土方歳三、共1名を連れて援軍を求め江戸へ。8日、援軍獲得に失敗。歳三、朝五ツ、日野通過、甲州へ向かう。
・山国隊、甲府城入城。
・赤報隊桜井常五郎ら小諸藩に捕縛の6人(桜井らは当初御影陣屋で捕縛、2月27日に小諸藩に移される)、岩倉総督府の命令により追分宿で処刑。
・大総督府、駿府(静岡)着。この頃、東海道先鋒は、小田原を制圧。
・勝海舟、初めて山岡鉄太郎に会う。6日、山岡鉄太郎を駿府の西郷へ派遣。益満休之助(前年暮れの薩摩藩屋敷焼き討ちで捕まっていた)、同行。9日、西郷・山岡会談。
3月6日
・大総督府、駿府(静岡)にて軍議。「3月15日、江戸城総攻撃」と徳川家降服5条件(妥協のないもの)を決定。
この軍議の前に、政府側の岩倉・三条実美・大久保らと大総督府の西郷との間に、慶喜恭順が確認できた際に慶喜を寛典に処す(妥協をしても徳川家降服を早期に実現する)ことについて、何らかの連絡がある。但し、これは大総督府内部では少数意見で、東海道総督府参謀木梨精一郎が徳川家に寛大な処分を行い戦乱を収束する案を西郷に進言した所、西郷は大に同意するが、大総督府の他のスタッフが拒否。
・輪王寺宮、徳川家の救解・徳川慶喜の謝罪のため駿府に入る。
・甲州勝沼戦争
甲陽鎮撫隊(土方・近藤)120人、甲州勝沼で板垣軍と戦闘・敗退。4月3日、近藤、下総流山に転戦、捕縛。25日板橋で処刑。
(甲州柏尾で戦闘に及び敗走、大月に至る。土方、早駕篭2挺で日野を通過する)
甲府城に入城した板垣、甲府城の旧幕臣より、甲府城を目指す大久保(近藤勇)の事を知り、また猿橋宿に正体不明集団(甲陽鎮撫隊)集結の報を受け、これを討伐する為に東山道軍参謀河田景与(左久馬、鳥取藩士)・軍監谷干城(土佐藩士)に甲州街道を進軍させる。戦力は、①土佐軍:2小隊(小笠原謙吉迅衝隊3番隊・谷神兵衛迅衝隊4番隊)・北村長兵衛迅衝隊砲兵隊(7門)、②鳥取軍:6小隊(佐分利九充銃士隊・天野祐次隊・藤田束隊・宮脇縫殿隊・建部半之丞隊・山国隊)・佐分利鉄次郎砲兵隊の内2門、③高島藩:半小隊(伍長岩本順吉朗)。谷が、前軍として土佐軍2小隊・砲兵隊・鳥取軍3小隊(佐分利隊・天野隊・藤田隊)・高島半小隊を率い先発し、続いて河田が後軍として鳥取軍3小隊(宮脇隊・建部隊・山国隊)・砲2門を率いる。
一方、甲陽鎮撫隊は勝沼村到着時点で、甲府城陥落を知り、更に討伐軍進軍の報が入り、勝沼村の柏尾山麓に布陣。
6日未明、谷は、斥候により勝沼柏尾山麓の甲陽鎮撫隊布陣とその陣地の堅牢さを知り、土佐迅衝隊大軍監片岡健吉に甲州街道南の日川を渡河し、柏尾山を見下ろす岩崎山攻略を命じる。片岡は、土佐迅衝隊3番隊・鳥取軍佐分利隊・高島藩兵による別働隊を率い岩崎山に向かう。
一方、甲陽鎮撫隊は新政府軍に対し、木を切り倒し甲州街道を塞ぎ、その後方の柏尾山麓に胸壁を築くなど陣地を構成し、大砲2門の内1門を甲州街道に向け、他の1門を岩崎山に向けて配置。また旧新選組永倉新八に菱山を守らせ、春日隊(多摩の有志隊)を岩崎山に布陣。更に、近藤は、兵力が少ない事を危惧し、援軍要請のため土方を江戸に派遣(土方が援軍を連れ戻る前に戦闘開始)。甲陽鎮撫隊は甲州街道に向けた砲1門により甲州街道を進軍する新政府軍を砲撃するが、戦果はなく、逆に甲陽鎮撫隊は新政府軍の砲撃に晒される。
新政府軍は、甲陽鎮撫隊の堅牢な陣地を抜く事が出来ず、迂回部隊(土佐迅衝隊4番隊・鳥取軍藤田束隊)に甲州街道北側の菱山を迂回し、深沢川を渡河し、柏尾山を越え、鎮撫隊背後を突かせようと進発させる。この為、谷の手元には歩兵1小隊(旧式のゲベール銃装備の鳥取軍天野隊)のみとなり、甲州街道上の攻撃力は低下(北村率いる砲兵隊は健在で、甲州街道上の攻撃は甲陽鎮撫隊に比べて優位な砲撃に頼る事となる)。
やがて柏尾の南の岩崎山で戦闘開始。岩崎山に向けられる甲陽鎮撫隊の大砲もまた役に立たず、春日隊のが新政府軍右翼部隊の攻撃を受ける。戦意は高いが実戦経験の無い春日隊は善戦、新政府軍は岩崎山を攻めあぐねる。しかし、新政府軍が岩崎山麓の集落を放火し、その煙により春日隊は混乱、その混乱を突いて新政府軍が岩崎山に攻めかかり、春日隊は敗走。新政府軍右翼部隊は岩崎山を占領、その後、日川を渡河し、甲陽鎮撫隊の側面を攻撃。この頃、新政府軍迂回部隊が、柏尾山北西の菱山の永倉隊を駆逐し、その後、菱山・深沢川・柏尾山を越え、北方から甲陽鎮撫隊背後に廻り込み、後方から射撃を開始し、甲陽鎮撫隊は混乱。
新政府軍前軍は、正面の甲州街道、南方の岩崎山、北方の菱山の三方から甲陽鎮撫隊を半包囲するものの、甲陽鎮撫隊が街道を封鎖し、街道脇から射撃するため歩兵1小隊のみの中央部隊はこれを突破できず。
一方の甲陽鎮撫隊も半包囲攻撃の中で兵士の士気は低下、新規募集兵の脱走者が続出。しかし、河田率いる新政府軍後軍が到着し、一種の膠着状態は急展開。新政府軍は、一斉に甲陽鎮撫隊陣地を猛攻、甲陽鎮撫隊は甲州街道を敗走。
河田率いる後軍先鋒の山国隊(丹波の有志農民により編成)は、戦いの終了後、甲陽鎮撫隊が遺棄したミニエー銃20挺を鳥取藩から貸出しされ、以降、このミニエー銃を用いて数多くの戦いを重ねる。
新政府軍は残敵掃討の為に一部を残し甲府城に帰還、甲陽鎮撫隊と連携しようとした柴田ら旧幕臣60余を尋問、柴田・保々らを斬刑。
・東征の伝馬命令、小野村寄場組合に届く。石阪昌孝、小島為政らと連日協議。昌孝の周辺は「不穏」の状況。13、14日、日野宿助郷の件で日野宿へ行く。(「小島日記」)
つづく
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