元久2(1205)年
7月1日
・或る人云う。日来皇居に霊物あり。伊予内侍の夢に、赤き大面のもの襲い来る。さめてこれを見るに、まさしくその体のものがあり、去って行った。又他人これを見る。聖体不予の事等あり、この怪異によりて遷幸と。(『明月記』)
7月5日
・定家、宿願により、長女(因子、11)を百日間日吉社に参籠させる。
この年、因子は後鳥羽院への出仕が叶う。
7月8日
・定家、嵯峨に滞在。~15日。
9日、祖父俊忠の忌日仏事
13日、地蔵講
15日、舎利講を修し、帰京。
7月8日
・北条政子、畠山重忠の所領を勲功のあった武士に与える。
「将軍家御幼稚の間此の如しと。」(「吾妻鏡」同日条)。
7月17日
・院より題三首を給わる。北野、祈雨の歌合である。(『明月記』)
7月18日
・馬を一匹引いて、良経の許に参ず。宇治御幸の料である。(『明月記』)
7月19日
・夜に入りて良経の許に参ず。清範、北野の歌合を持ちて、御判を申す。すなわち注を付け、返上せしめ給う。御筆停滞せず。深更に退下す。(『明月記』)
7月20日
・政子、自らに従う女房5~6人に御家人の遺領を分け与える。
7月21日
・巳の時許りに、院に参ず。中御門殿の御造作を御覧ずるため渡りおわします。身を憚るといえども、仰せによりて参入す。午の時許りに退下す。南庭の池に橋を作るべきの由、仰せによりてこれを沙汰す。(『明月記』)
7月25日
・時政、肥後の相良永頼を人吉荘地頭に補任する下知状(相良家文書)を発給。所領の給与という重要な案件を時政・政子がそれぞれ執行
7月26日
・定家、後鳥羽院宇治御幸に参仕
7月27日
・巳の時許りに参上す。今日、離宮に於て相撲あるべし。俄に御神事と。すなわち退出す。院以下、相撲におわします。今日、良経の姫君御着袴なり。(『明月記』)
7月30日
・良経の許に参じ、又院御所に参ず。心神たちまち違例。良経、平等院におわします。宝蔵の御調度を御覧ずるの間、騎馬して京に帰る。文義の家に入り、しばらく休み、夜に入りて家に帰る。(『明月記』)
つづく
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