大正12(1923)年
・この年、靉光(あいみつ、16歳)、単身大阪へ出て天彩画塾という専門塾に入所、本格的に絵の勉強にうちこみ始める。雅号として「靉川光郎(あいかわみつろう)」(のち靉光と名のる)という名を使いだしたのはこの頃。
「天彩画塾時代は、自作の妙な恰好の服を着て、腰に大きな目ざまし時計を吊るして歩きまわった。長髪には白黄赤青など極彩色のダンダラ模様がついている。絵具だらけになった手を、布代りに頭髪でぬぐうからである」(ヨシダ・ヨシエ 菊池芳一郎編『靉光』昭和40年8月所収)
翌年(1924(大正13)年には、画友中島茂男と共に上京し、谷中の下宿に住み太平洋画会研究所に通う。そこで井上長三郎、鶴岡政男、麻生三郎ら個性派画学生たちと知りあい、川端画学校にも通う。"
靉光(アイコウともアイミツともよまれる。本名は石村日郎(にちろう));
1907(明治40)年6月24日広島県山縣郡壬生町字梅之木(現、北広島町壬生小字梅之木)の農家に、父初吉、母ツネの次男としてに生まれる。大阪の天彩画塾に学んだのち上京、井上長三郎や野村守夫ら同時代の画家が通う太平洋画会研究所に入所。19歳のとき二科展に出品した《ランプのある静物》で初入選。以後一九三〇年協会展や槐樹社展、独立美術協会展などを中心に活動、当時若い個性ある画家や詩人が多く蝟集していた通称「池袋モンパルナス」とよばれる豊島区東長崎のアパート「培風寮」の二階に3年余り住んだ。第8回独立美術協会展に代表作《眼のある風景》を出品して独立美術協会賞を受賞。1943年には麻生三郎や松本竣介、糸園和三郎といった気鋭画家たちと「新人画会」を結成するが、翌44年5月に召集をうけ、1946年1月上海の野戦病院でマラリアとアメーバ赤痢のために38歳で戦病死する。
大正12(1923)年1月
〈中国・朝鮮〉
・~5月、上海、大韓民国臨時政府の混乱収拾のための70団体による国民代表会議開催、「改造派」・「創造派」に分裂。申采浩は、その後、北京に渡り武装独立運動団体多勿団顧問。創立宣言文作成。
大韓民国臨時政府;
1919年(大正8年)の三・一運動後、海外で朝鮮の独立運動を進めていた李承晩・呂運亨・金九らは、中華民国の上海市おいて臨時議政院を設立し、李承晩を首班とする閣僚を選出、臨時憲章を制定し、1919年4月、大韓民国臨時政府の樹立を宣言した。同じころ、朝鮮半島では天道教系の大韓民間政府や朝鮮民国臨時政府、平安道の新韓民国、京城の臨時政府、シベリアに大韓国民議会など独立派の組織が樹立されたが、やがて上海の臨時政府に統合されていく。
臨時政府はシベリア派と上海派の対立、安昌浩等の「民力養成論」派と李東輝等の「即戦即決論」派の対立、李承晩と安昌浩の対立などによって混乱し、この年の国民代表会議の決裂以降は急速に勢力が弱まる。
・上海、義烈団(金元鳳)、「朝鮮革命宣言」発表、申采浩(ジャーナリスト・独立運動家)執筆、民族改良主義糾弾
義烈団;
日本からの独立を目指すために結成されたテロ組織。金元鳳らを中心に結成された。本拠地の上海フランス租界や北京で手榴弾を密造し、官庁や要人を対象とする多くの爆弾テロを起こした。
・ソウル、朝鮮物産奨励会、民族産業防衛育成
・ソウル、義烈団員金相玉の鐘路警察署投弾・三坂通事件
・中国、山東鉄道回収完了。(1922年ワシントン会議における山東還付条約による)
〈日本〉
・過激社会運動取締法案、労働組合法案、小作争議調停法案に対する反対運動熾烈。政府、議会不提出声明。
・高等学校連盟(HSL)結成
・在日朝鮮人留学生による北星会結成。
1921年11月、社会主義思想を受容する朝鮮人留学生(朴烈、曺奉岩、金若水ら)により黒濤会(朝鮮語版)が発足した。
黒濤会は1922年に分裂し、朴烈ら実行派(アナキスト派)が風雷会(のち黒友会)を、金若水・金鍾範ら議論派(ボリシェビキ派)が北星会を結成した。
・藤田組農場争議。最初の立入禁止仮処分。以降これが地主側最大の武器。
地主側は地主組合を作り対抗、小作人から土地を取上げたり、小作米・動産を差し押えたりする訴訟を起して反撃。そして、訴訟の目的物を確保する為に裁判所に仮処分を求め、立毛(まだ田にある稲)を差し押えたり、耕地への立入りを禁止するなどの手段が採られ始める。
大正13年の新潟県木崎村争議では、裁判所が1回の口頭弁論も開かずに立入禁止仮処分を許可し、日農の木崎支部長が日本刀で自殺して抗議する事件も起る。香川県伏石村争議では、立毛差押仮処分がなされ、組合側は刈取り時期を失するとして、民法の「事務管理」の規定を使い刈取りを行うが、地主側が窃盗罪で告発、裁判所はこれを認め前川正一ら指導者に懲役10月以下の実刑を科す。
・コミンテルン第4回大会((1922年11月、ペトログラードとモスクワで開催))より、高瀬清が「22年テーゼ」を持帰る。
当面の課題を「ブルジョア革命」と規定、共産党の任務として、「過渡的スローガンとして天皇の政府の顛覆及び君主制の廃止を掲げ、かつ普通選挙獲得の闘争を指導しなければならぬ。実にそれを実行することは日本の革命運動の現在の発展段階において、共産党の旗の下に最大限度の勢力を集中し、その勢力の指導権を握り、かくして日本のプロレタリアートのソヴエト権力のための未来の闘争の道を開拓するために必要である」と述べ、普選運動に積極的に共産党が参加すべきことを強調。
また、高瀬は共産主義青年インターナショナルから日本共産青年同盟(以下、青年同盟)設立の指令も受けた。
・山川均「当面の問題」(「前衛」)。過激社会運動取締法案反対運動を起せと呼掛け。
前年、社会主義者のとった過激法案は運動を真剣にし深刻化するから歓迎という態度を、戦争はしばしば社会変革の動機となるから賛成だと言うに等しい、驚くべき「忍従主義、無抵抗抗主義、諦め主義、宿命論」と非難、プルジョワ権力に対し積極的な対抗に移るペく法案反対連動をおこせと呼掛け。
・論説「過激法案を葬れ」(総同盟機関誌「労働」)。
・「時事新報」1・2月分に見る朝鮮関連記事。
1月5日付社説、「植民地補充金-治鮮方針の確立」と題し、武断主義や同化主義は時勢に順応せず、「今後の方針としては鮮人銘々の自覚を促して其自治的精神の発達を期することを主眼とせねはならぬ」と主張。社会面では、1月15日「下関の鮮人片っぱしから御用」(田中大将狙撃渾件関係者が下関に現れた為)、21日「武器を買ひに鮮人の潜入」、24日「不穏鮮人二名が東京へ潜入、警視庁俄に活動を始む」、2月5日「鮮人大学生の三人連は何処へ、発車間際に姿を晦まされ下関署では大狼狽」、21日「鮮人土工四名が府吏員を殴る」等々の記事。独立運動家を「不遥鮮人」「不穏鮮人」と呼び、民衆に偏見に基く恐怖感を植え続ける。
・菊池寛「文藝春秋」創刊。芥川龍之介「侏儒の言葉」巻頭連載。横光利一「時代は放蕩する(階級文学者諸卿へ)」
発行編輯人兼印刷人菊池寛、発行所文藝春秋社、住所東京市小石川区林町19番地。
巻頭に芥川龍之介「侏儒の言葉」、これは芥川の自殺まで一貫していた。
「創刊の辞」で、「私は頼まれて物を云ふことに飽いた。自分で、考へてゐることを、読者や編輯者に気兼なしに、自由な心持で云って見たい。友人にも私と同感の人々が多いだらう。又、私が知ってゐる若い人達には、物が云ひたくて、ウヅウヅしてゐる人が多い。一には、自分のため、一には他のため、この小雑誌を出すことにした」と創刊の意図を説明。
菊池が『文藝春秋』創刊を考えたのは、世間の常識の一歩先を歩く雑誌を創り、世論をリードしたかったからである。自分が編集する雑誌で世間を動かす。文壇の垣のなかにある文学を社会の大きな輪のなかに放ち広げる。文学の文壇化現象から文学の社会化現象へと視野を広げる。その上で最終的に文壇は狭い世界から広い世界へと開放されるだろう。その世界の中心にいて世界を動かしたい。
菊池は『文藝春秋』を発刊することで、一通俗作家から世界を動かす政治的人間への脱皮を願望した。芥川、久米を盟友にもち、横光利一、川端康成を配下にもつ文壇の雄として撃って出る決意を固めた。
創刊号で横光は「我が創作壇に於て、此の新らしき時代感覚の現れてゐる最も近代的な作家を(巧拙好悪に論なく)あげてみる」(「時代は放蕩する-階級文学者諸卿へ」)と断って、「題材を披瀝し抽出する新鮮さ」で菊池寛、広津和郎を、「センテンスの交錯の調和から浮かんだ新鮮さ」で金子洋文、内藤辰雄、高群逸枝を、「リズムの格調から来る時代感覚の新鮮さ」で佐佐木茂素、菊池寛を、「在来の古き時代感覚を抹殺し、新らしき時代感覚を匂ひに生かす点」で十一谷義三郎、牧野信一、福永挽歌を、「パートの配列に新らしさ時代感覚を示す努力」で芥川龍之介、志賀直哉を、「新らしき時代感能を漂出さす作家」として佐藤春夫を挙げている。
横光は大正8年、東京市小石川区中富坂町の菊池家を訪ねて以後、菊池の恩顧を受ける身分になる。菊池を通して「日輪」を『新小説』へ発表し、横光は文壇へデビューする。
大正9年末、川端は石浜金作、今東光、酒井真人、鈴木彦次郎と第六次『新思潮』を創刊することを決め、『新思潮』の継承権をもつ菊池を訪ねた。菊池は東京帝大学生でない今を入れることに難色を示す。川端は「今東光を参加させないなら僕は止めます」と抵抗。川端は今を同人に加えることを譲らず、菊池も折れた。10年11月、菊池の家で横光と川端は出会った。2人の生涯にわたる交友は、この時にはじまる。横光に出会う前、川端は菊池の家で芥川、久米に出会い知遇を得ていた。こういう先輩作家に親炙する環境のなかで、川端は文壇に登録された。
中河与一は早稲田の学生として菊池を訪ね、原稿を読んでもらい世に出た。
『文藝春秋』創刊に際し、菊池は旧知の芥川、久米、小島政二郎、岡栄一郎、佐佐木茂索、山本有三を同人とし、2号から「私が知ってゐる若い人達」として川端、石浜、今、酒井、鈴木の『新思潮』同人、佐々木味津三、鈴木氏亨、斎藤龍太郎、小鳥健三、船田享二、小柳博、小山悦郎、横光、中河、南幸夫が同人に加わった。
従来の文芸雑誌に比べると全く上下をぬいだ性格の雑誌で、2頁、定価10銭。巻頭の芥川電之介「侏儒の言葉」から巻末の「菊池」と署名のある編集後記まで4段組でつまっていた。同年の『中央公蘭』新年特大号が1円80銭、『新潮』は80銭だったから、体裁や値段からいっても型破りの雑誌だった。創刊号は僅か3千部のこの雑誌は、気のきいた短文や新発明の座談会など、小市民のセンスにぴったりした内容の中間雑誌として発展し、2年たらずのうちに発行部数10万部を超える大雑誌にのしあがった。
芥川龍之介;
大正10年暮れに神経衰弱が激しくなり、11年になると神経衰弱に加え、胃痙攣、腸加答児(カタル)、ピリン疹、心悸亢進、不眠に苦しんだ。
この年1月からは、神経衰弱の症状をやわらげるため、塩化カルシウムの注射を、5日、17日、19日、25日、27日、2月3日、5日、7日、9日、11日、14日、19日、21日、27日とつづけて打っている。
つづく
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