〈100年前の世界001〉大正12(1923)年1月 大韓民国臨時政府の国民代表会議(上海、決裂) 高瀬清が「22年テーゼ」を持帰る 山川均「当面の問題」(「前衛」) 菊池寛「文藝春秋」創刊 より続く
大正12(1923)年
1月
・『主婦之友』発禁(風俗攪乱)。「貞操の切り売りを強いられる娼奴の悲惨なる告白」記事。
編集担当者は、「男子の見方から鄙猥な告白と片付けられるのは心外だ」と述べている(『読売新聞』1月22日)。
この時期、いわゆる「告白物」と言われる暴露記事が流行している最中で、売らんがために、かなり際どい読み物を掲載した雑誌もあった。だが、その取締りが「男子の見方から」なされたことは否定できない。
・『赤と黒』創刊。壷井繁治・岡本潤・川崎長太郎・萩原恭次郎。
「詩とは? 詩人とは? 我々は過去の一切の概念を放棄して、大胆に断言する。〝詩とは爆弾である! 詩人とは牢獄の固き壁と扉とに爆弾を投ずる黒き犯人である!」という宣言を謳って出発した。
早稲田時代から詩作をはじめた壷井繁治は、22歳ではじめて詩を書いた。大正11年9月に個人詩誌『出発』発行。その頃、岡本潤と知り合った。『出発』を読んだ岡本から非常に感動したという葉書が届いた。この手紙は繁治の感情を大きく揺さぶった。すぐに早稲田鶴巻町の指物師の二階に新婚の妻治子と住む岡本を訪ねた。潤が社会主義の考え方をする人間であること、社会主義だけでなくアナーキズムにも造詣が深いことを知った。
田山花袋の弟子で群馬県出身の無名作家中沢静雄の短編集「一日の糧」の出版記念会が、初秋のある日、神田万世橋駅内のミカドで開催された。中沢の妻が田山花袋全集刊行会の同僚だった関係で繁治が出席すると、萩原恭次郎が前橋から出席しているのに出会った。恭次郎は白リンネルの背広に、黒いボヘミアン・ネクタイを結んでいた。油をつけない長髪の、蒼白い、熱情的だが、幾分憂鬱そうな面長な顔が印象的だった。彼の詩は読んでいたので、すぐ打ち解け、計画中の新しい雑誌の話をはじめると、「よし! やろう!」と即座に同意した。
もう一人、元牧師でアナーキストになった加藤一夫の家に出入りしていた川崎長太郎。長太郎は大正7年に創刊された福田正夫の『民衆』に加わって詩を書きはじめ、10年に加藤を知ってアナーキズムの洗礼を受けた。『熱風』(ブルジョア文学撲滅を掲げたプロレタリア文芸誌『シムーン』を改称)で知り合った長太郎を潤が誘った。
・長与善郎「青銅の基督」(『改造』)
長与家は肥前大村藩侍医の家系で、父専斎(せんさい)は緒方洪庵に師事し、ボンベに学んだ。明治4年10月8日に岩倉使節団の一員として武者小路実篤の父実世(さねよ)と一緒に欧米に出張した。専斎は帰国後、内務省衛生局長をつとめる。専斎は明治35年に没するが、長男の称吉が専斎の功により男爵に叙せられ、明治の華族の一員となった。
三男の又郎(またろう)は東京帝国大学総長をつとめ、漱石の主治医だったことで知られる。
長与は大正11年9月9日に長崎に着いた。日向にある武者小路の新しさ村に寄り、長崎をへて朝鮮の京城で富本憲吉、柳宗悦と落ち合う予定であった。長崎で長与は永見徳太郎(洋画家、俳人、実業家)から南蛮鋳物師萩原裕佐(ゆうさ)の話を聞いた。
裕佐は名人としてその名を知られていた。本古川町の住人で、寛文9年に長崎奉行河野権右衛円通定より青銅の踏絵を作るよう命じられた。完成した裕佐の作物は秀でたもので、莫大な恩賞があるだろうと人々は噂した。しかし幕府は裕佐の青銅の踏絵があまりにも見事なので、切支丹宗徒がますます信仰を増すことと、切支丹が彼に神像を頼むことを怖れて、無惨にも裕佐を斬罪にしてしまった。裕佐が制作した20枚の踏絵は帝室博物館に所蔵されている。
永見の話は長与に強い印象を与え、いつか書いてみたいという気持ちをおこさせた。
・平林初之輔「私の知り得る範囲」(『解放』)
・青野季吉「階級闘争と芸術運動」(「種蒔く人」)
・萩原朔太郎の詩集「青猫」出版。
堀辰雄(19)、寮の2階寝室で耽読する。
・宮沢賢治、童話原稿を、弟清六によって婦人画報編集部に持ち込ませるが、断られる。
・与謝野晶子(46)、自選歌集『晶子恋歌抄』(三徳社)刊行
・小林多喜二(20、小樽高商在学)、「健」(「新興文学」当選入選)。1922年10月筆。実の兄を主人公に見立てた作品。
小林多喜二;
明治36年10月13日、秋田県北秋田郡下川沿村川口17番地(現、秋田県大館市川口236番地2号)で、父末松(慶応元年9月9日生)、母セキ(明治6年8月22日生)の二男として誕生。末松・セキには、長男多喜郎(明治28年11月15日生)、長女チマ(同33年12月21日生)、二女ツギ(同40年1月4日生)、三男三吾(同42年12月12日生)、三女幸(同43年7月7日生)がいた。
小林家は旅館を営む兼業農家であった。青森や北海道への交通路だった羽州街道に面した宿場町は、明治10年頃には鉄道開通とともに寂れていった。
多喜二の伯父慶義(父末松の兄)は、投機的な事業を続け、ことごとく失敗して多額の負債を抱えこむ。数年にわたる裁判で、小林家は田畑・家産の大部分を失い、慶義一家は秋田から小樽へ移住した。
その頃の小樽は日本海やオホーツク海の沿岸漁業基地で、石狩平野の開発拠点の中心地として発達途上にあった。
慶義は小樽区潮見台町で開墾事業を始め、長男幸蔵を小樽の山田嘉一という靴屋へ徒弟に出した。明治34年、幸蔵は靴店をやめ、小樽の石原源蔵というパン屋の徒弟になった。
35年春、慶義と幸蔵は石原の店を譲り受けて独立し、石原の指導と援助を受けながら小樽区稲穂町に小林三星堂というパン屋を開業した。
37年5月8日、小樽は大火に見舞われ、中心街の2,481戸を焼き尽くした。小林三星堂も類焼したが、慶義・華蔵はただちに再建に乗り出し、小樽区潮見台町に小さなパン工場を建て同業者に先んじてパンの製造をはじめた。この作戦が成功し、8月には新富町に工場付きの小林三星堂パン店を開店した。
日露戦争の時代、小林三星堂は「帝国軍艦御用達」のパン店として繁昌し、30人を雇う小樽一のパン店となった。
38年春、小樽港は樺太開発の発信基地となり、小林三星堂パン店は30数隻の軍艦に数10万円のパンを売り込むことに成功した。
慶義は弟の末松に小樽に来るよう勧め、末松は小樽に行くことを決めた。慶義に預けていた長男多喜郎が明治40年10月5日に急性腹膜炎で急逝した。この時、未松とセキは小樽の繁栄を見ていた。
こうして多喜二一家は明治40年12月暮れに小樽に移住した。
翌41年、末松は小樽区若竹町の伯父の隠居所に移った。そこは仮
の住まいであり、小樽区若竹町18番地に小林三星堂パン店の支店を開業した。末松は朝早く兄の工場に仕入れに行き、会社に出かける労働者にパンを売った。店は駄菓子屋に近いものであった。
同年5月、小樽港の第二期築港工事が若竹町を基点に数年の予定ではじまった。多喜二はタコ部屋の労働者の遺体が無造作に棄てられるのを見て育った。
43年4月、多喜二は小樽区立潮見台尋常小学校に入学、大正5年3月、同校を卒業した。同年4月、伯父慶義の援助を受けて北海道庁立小樽商業学校に入学した。姉チマは慶義が月謝を援助する約束で北海道庁立小樽高等女学校へ通っていた。末松は、その上に多喜二の学資の援助を慶義に頼んだ。慶義は月謝を出すことを約束したが、同時に多喜二が伯父のパン工場で働きつつ通学する条件を受け入れるよう迫った。
多喜二は登校前にトラックや荷車でパンの配達をし、下校後に従業員と一緒にパンを作り、家の雑用をすませた。食事は従兄弟たちが食べた後に摂るよう決められていて、伯父一家は多喜二を仮借なくこき使った。一方、パン工場で働く従業員は、多喜二を同僚として扱うことなく、主人の親戚で自分たちには不可能な高等教育を受けている人間と見ていた。多喜二の自我は、この複雑な環境にあった小樽商業学校時代に芽生えだと言われる。
大正6年、多喜二は島田正策、斎藤次郎らとともに水彩画を描きはじめ、翌7年、校内で展覧会を開いたこれが好評で仲間が増え、小羊画会と名づけた。稲穂町の中央倶楽部で洋画展覧会を開くようになった。
9年4月に多喜二は島田、斎藤らと回覧雑誌『素描』創刊した。
同年9月下旬、多喜二は伯父から絵を描くことを禁止された。夜の外出を咎められ、悪友との交流を批判され、勉強もせず、増長していると面詰される。伯父の言い分を聞き入れなければ、上の学校へは行けない。
10年3月、小樽商業学校を卒業、5月、小樽高等商業学校に入学した。秋頃から志賀直哉の文学に着目し、文学に傾倒してゆく。
『小説倶楽部』に短編小説の投稿をはじめ、同年8月号の「祖母の遺言」、12月号の「ある嫉妬」が選外佳作になった。翌11年3月号の「龍介と乞食」が選外佳作、翌12年1月号の『新興文学』に「健」が入選すると、画家になる希望を捨て、文学一筋に歩くことに決める。
大正10年4月、大熊信行が小樽高商の経済学講師として赴任した。大熊は若い頃からの文学青年で、社会主義に関心をもつ少壮気鋭の社会学者であった。
大正期の小樽高商で最も有名だったのは、「囚はれたる経済学」を著わした大西猪之介であった。11年2月、大西が急死した。その後を継ぎ、大熊が講師から教授に昇進し、多喜二は大熊を通して社会主義の理論に触れてゆく。
大熊が描くその頃の多喜二。
「作家というものは、常人の経験しない生の深淵を足もとにふまえているべきはずのもので、かれ自身狂気そのものであってはならないが、狂気を内に抑えているものでなければならない。多喜二には、そうした〈天才〉のひらめきがなかった。ただ、創作の持続的衝動が、なかなかねばりづよく、作風は、武者小路ふうのイヒ・ロマンから遠い、客観的、写実的傾向に終始してい、題材は、町はずれの駄菓子屋の婆さんだとか、巡査だとか、およそ一見して作家自身から遠いところにみいだされた。あたかも多喜二は、えかきが絵をかくように小説をかいたが、うまれながらにもってきた〈思想〉がなかった。かれは、まだ方向をあたえられずに、かけまわっている馬のようなものだった。」
つづく
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