2023年7月18日火曜日

〈100年前の世界005〉大正12(1923)年1月20日~25日 総同盟、労働組合法案・過激法反対の全国的運動を起すことを決議 共産党、過激法反対を決議。但し、普選運動=議会主義には反対 過激法案反対全国代表者会議(20団体) 過激法案反対無産者同盟結成          

 

山川均

〈100年前の世界004〉大正12(1923)年1月5日~18日 大阪産児制限研究会設立(野田律太・三田村四郎・九津見房子ら) 過激社会運動取締法に反対運動 フランス、ルール地方占領 陳炯明の反孫文クーデタ失敗 より続く

大正12(1923)年

1月20日

・総同盟中央委員会、労働組合の自由な発達よりも取締りをめざす労働組合法案と過激法反対の決議を行ない、他団体と共に全国的反対運動を起すこと、2月11日を統一行動日とする、ことを決める。

共産党が総同盟の中央集権的合同諭を支持したことにより、分裂後、総同盟指導部における共産党の影響力は決定的となり、前年(1922年)10月の第11周年大会では公然と資本主義社会の変革をうたう新綱領を定めた。総同盟機関誌『労働』はこの年の年初早々「過激法案を葬れ」の論説を第1面に掲げていた。

1月20日

共産党、過激法反対運動を決議。但し、普選運動=議会主義には反対とする。

中央委員会声明。「吾人が議会主義に反対なるは既に明かである。併し吾人は吾人の理想実現のために当然必要なる政権獲得運動即ち政治運動を抛棄するものではない。吾人は時宜に適した最も有効なる政治運動と経済運動とを敢行しなければならぬ。されど議会主義は妥協的であり改良的である。故に吾人は議会主義を奉ずる普選運動が如何に白熱化しても吾人の明白なる目的と正当なる手段とを確くとつて下らないものなることを玆に声明する。」。

これを掲載した総同盟機関誌「労働」は、2月号殆ど全てをあげてこの趣旨徹底に務め、労働運動に決定的作用を及ぼす。

山川均は議会ボイコットが議会参加よりも有効なブルジョワ権力との闘争方法であると主張、「ブルジョア急進分子と共に普選運動をすること」を、「革命的無産階級運動に対して、徹頸徹尾、何らの理解もないことを暴露したもの」のーつに数えた。山川の普選運動に対する態度は、「方向転換」論以後も変らず、彼の意図する政治行動とは、三悪法反対運動のように議会外に留まり、これに圧力を加える運動に限定されている。

堺利彦は、政治闘争への進出さえも警戒的。

荒畑寒村は、普選運動をやれば、一般民衆は、「滔々相率ひてブルヂョア急進主義の傘下に奔って了ふであらう」といい、また合法的無産政党組織についても、官憲の圧迫の厳しい日本では犬養らの革新倶楽部に毛の生えた政綱くらいしか掲げられないので、結局はプルジョア急進主義勢力を助長することになるだろうと批判的で、「都市農村の無産階級に向つて、直接にソヰエットの組織を宣伝し、政治的総同盟罷工を鼓吹する」運動方法をとるべきと主張。

佐野学は、「普選大害論」を鼓吹。①普選が行なわれれば「労働組合の革命的気勢を滅殺する」、②革命気勢の弱い「農民運動を大右傾せしむ」、③ブルジョワ自由主義の方向に、労働組合に属さない「労働大衆を迷わしむ」、④「普選となるもプロレタリアは幾何の議席をも有し得ず」、⑤その結果「ブルジョア政党に翻弄せらる」と、普選の有害無益を説き、「吾人は常に大衆と共に在らねはならぬ。しかし其の邪路に対しては身を以て争はねばならぬ」と主張。

南葛労働会の渡辺政之輔は、普選が施行されても。組合運動がやり易くなることさえないから、普選獲得に熱中する必要なしと論じ、北九州労働運動の指導者浅原健三(「熔鉱炉の火は消えたり」の著者、共産党の影響下にある)は、「プロレタリア政治運動」とは「社会主義者と右翼労働運動着の野合」だとして、「方向転換論者を嘲笑」。

徳田球一を筆頭に、山川見解の批判者が現れる。徳田が普選派の代表的人物であったことは、後年の治安維持法違反事件の予審に際し明らかにした通りである。

アメリカで片山潜と共に共産党活動の経験をした猪俣津南雄・鈴木茂三郎は、「政治行動の回避は無産階級運動の自殺だ」と極言し、「ブルジョア政権の表門」たる議会に、「まあ兎に角はいり給へ」と無産階級に呼びかけているのが普選だが、「ブルジョアジーが誘ひの隙を見せたら、誘ひの隙と心得て打込んで行くまでだ、有効な一太刀なら一太刀でも多いほうがよい」と、議会への進出を積極的に主張。

同じ片山門下の近藤栄蔵は、前年1922年10月、「共同戦線の拡充と階級的統一戦線」を目指し雑誌「民衆の意志」を発行。彼は、普選は観念的に否定しても、既に「切迫した当面の問題」であると強調、普選運動を否定する組合の宣言は労働者大衆の意識水準を示すものではなく、大衆の前衛部隊たるものが、「其の本部隊たり勝敗の決定者たるべき大衆の鼻先きに、其闘争精神を麻酔せんとする毒瓦斯をふりかけられた現状に対し、ひとりよがりの沈黙をなし得るであらうか」と、普選運動をやらぬところにプロレタリアのカが示されているとする堺利彦の所論を名指しで批判。更に、この年1月、「民衆の意志パンフレット」として発行した「プロレタリアの政治運動」では、特に国民の多数を占める農民に議会をボイコットしうる可能性はなく、放置すれば「ブルジョア政治屋の口車に乗せられて」しまうおそれのあることを指摘。そして普選問題は、「自ら進んでそれを自己階級の利益のために解決せなければ、必ずそれは、敵の利益のために、敵によって解決せられてしまふ」との見地から、「吾々個々の政治的要求政治的活動を一大プロレタリア政党の綱領と運動とに結合して、ブルジョアの協同策戦に対抗せねはならぬ」と、普選運動参加を呼びかける。近藤は、この趣旨に賛同する久保芳郎・福田秀一・小池宗四郎・本沢兼次・高尾平兵衛らと共に1922年12月四日「時局研究会」を組織。

時局研究会のー員北原竜雄は、大衆が普選に冷淡なのは議会主義を意識的に否定しているからではなく、普選を理解していないからだとして、大衆が普選の必要にめざめ、熱を帯びて来た場合、社会主義者はどうすべきかと問いかける。北原は、1923年2月、福田狂二と共に月刊誌「進め」を創刊、「ポルシェヴヰズムの日本化」を旗印に、「政治運動の是非及び能至(3号)、「プロレタリア政治運動は都会と農村盲何れに於いて先づ発展するか。プロレタリア政治運動の全国中議会行動はどの程度での重要さを占むるか」(6月号)などアンケート発表して、合法無産政党の構成を含む政治戦線への進出の気運を喚起。

1月20日

・普選即行全国記者同盟大会、開催。

1月22日

過激法案反対全国代表者会議。20団体代表。

小石川労働会を除く在京の主要労働組合、名古屋の中部労働組合連合会と名古屋労働者協会、東京・大阪の各朝鮮労働者同盟会、水平社と計20団体代表。席上、自由連合派の6団体は参加を保留するが、総同盟側は宣言・決議文を正進・信友両組合のそれと同一趣旨のものとし、また全国的連合組織の名称決定を保留するなど統一への熱意を示す。翌日、機械連合を除く諸組合が加盟を申し入れ。その後も、機械連合に働きかけ(結果的には参加せず)。

アナ派内部は動揺。「労働運動」は、反対運動は臆病者の改良主義者か、「モスコオへ報告種に示威運動」をやる共産主義者のやる事だと運動に反対。しかし、加藤一夫主宰に「自由人」は、「政治否定論の具体的一発露」として、プロレタリアの鉄鎖強化を図る過激法には反対せねはならぬと主張。アナキスト・グループが動揺し、統一行動を期待する組合員を抱える自由連合派諸組合では、反総同盟の足並みが乱れる。東京の自由連合派2グループのうち労働組合同盟所属組合の最大組織の造機船工労組合・時計工組合は問題なく法案反対決議を行ない、伝統的にアナ派との関係の深い信友・正進の両組合も、反対決議でないものの、過激法を制定しょうとする政府・議会に対し「極力反抗」するという連合宣言を発し、反対運動に加わる可能性を示す。他方、反総同盟感情の強い機械労働組合連合会内部でも、所属6組合のうち平沢指導下の純労働者組合が他組合の説得につとめ、全国代表者会議の様子をみて、統一行動に参加可否を決めるとする。

1月22日

・日華郵便約定に関する政府対枢密院の衝突に優諚下賜。

1月23日

・上海で初のラジオ放送が始まる

1月24日

・貴衆両院、日華郵便約定に関し政府の軟弱外交を攻撃。

1月24日

・前年11月中旬にハーディング大統領が派遣した連邦政府労働調査団、ハワイでの調査結果を報告。①ハワイでの労働不足なし。中国人再輸入法案は勧告しない。②日本人は同化不能、脅威となっている。移民法修正を勧告。

1月25日

・社会主義グループも提携し「過激法案反対無産者同盟」結成。翌々日、運動方法を巡りアナ・ボル対立が起り、北風会などアナ系4団体が脱退。「無産者同盟」はボル系の全国47団体が加盟。社会主義同盟解体後の初めての社会主義者の公然たる全国組織。

1月25日

・帝国農会、地租軽減運動開始。

1月25日

・小泉信三「価値論と社会主義」刊行。

1月25日

・池波正太郎、誕生。

1月25日

・ソ連、労農監督部再編に関するレーニン論文(「プラウダ」)。スターリン、モロトフ、ブハーリンなど反対。


つづく

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