大正12(1923)年
1月26日
・ソ連代表ヨッフェ・孫文、共同宣言。
連ソ容共へ転換。共産党陳独秀は国共合作には反対。コミンテルンの国民党援助約束。
孫文側が要求し、「共産組織、およびソビエト制度は中国に移入することは不可能である」との確認事項がある。
翌月には、日本に赴いたヨッフェに同行した廖仲愷(りょうちゅうがい)との間でソビエトからの援助の具体的な取り決めが行われる。
前年(1922年)11月のコミンテルン第4回大会に出席していた劉仁清が、国民党への個人加入について報告した際、いずれは「われわれのまわりに大衆をあつめ、国民党を分裂さすことができる」と述べて共産党員の独自性を強調すると、ソビエト代表ラデックは「反帝統一戦線の必要を軽視している」とたしなめた。
劉仁清の発言は個人加入に反撥する共産党員の気持ちを代弁するものだろう。
1月26日
・カービ・イタリア歌劇団公演(帝劇。~2月4日、1925.3月、1926.3月)。
1月27日
・平林初之輔「無産者文学のために」(『讀賣新聞』)
1月27日
・ミュンヘン、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)、初の大会開催。
1月30日
・蒋渭水ら、台湾議会期成同盟会設立届出を拒否される。
2月16日、東京で同会を設立。
22日、蔡培火ら、台湾議会設置請願書を議会に提出。
12月16日、蒋・蔡ら首謀者検挙。
1月30日
・正式名称「過激社会運動取締法案労働組合法案小作争議調停法案反対全国労働組合同盟」発足。
1月30日
・ギリシャ・トルコ間で住民交換協定を締結。
1月31日
・アメリカ、小説家ノーマン・メイラー、誕生。
1月末
・渡辺政之輔ら、南葛労働協会を南葛労働会と改称。
1月末
・田口タキ(14歳8ヵ月)、室蘭の銘酒屋へ売られる。父親から手伝いに行ってくれと言われた先は淫売屋だった。
タキは明治41年5月9日、小樽区色内町で父玉蔵、母キクノの長女として生まれた。一家は長女タキ、二女は不明、三女ミツ、四女ミ子(ね)、五女シゲ、六女静枝、七女ス工、長男秀雄、二男政雄を含めて9人姉妹弟であった。両親は小樽の北隣の漁村高島郡高島村で蕎麦屋を経営していた。小樽に出て店を構え、一度店をたたんで再び高島村で蕎麦屋を経営した。父の商売はむら気が多く、腰の定まらないものであった。
大正11年暮、父は葉に失敗し、一家は故郷に逃げ帰った。森町の駅前で蕎麦屋を開店したが、生活に行きづまり、一家は貧窮のどん底に落ちた。
12年1月末、タキは室蘭の銘酒屋へ売られた。一家は長女を売った金で生計の立てなおしを計った。
森町から小樽市長橋町の借家へ住み替え、玉蔵は日雇いに出て働いた。生活はいっこうに改善されなかった。同年12月17日、地吹雪の舞う日、若竹町踏切で玉蔵は轢死しているのを発見された。
残されたキクノは秀雄、ミツ、静枝だけを連れて、小樽市稲穂町に住む日雇い労働者若月金次郎と再婚した。小学校2年生だったミ子は小樽市稲穂町の竜宮神社下角にあった鳥料理専門店「千代本」の丹野ちよ方に、シゲは小樽市稲穂町の港湾労務者奥野初次郎・八重方に、ス工は小樽市稲穂町の鍛冶職佐藤半平・くに方に、政雄は小樽市稲穂町の洋品小間物屋宮野要十郎・美代方に貰われて行った。一家は離散した。
翌年(大正13年)4月、タキは義父と母の手で室蘭の銘酒屋から小樽のヤマキ屋に転売された。ここで、小林多喜二と出会うことになる。
1月末
・ハワイ、本願寺派総監督今村恵猛、外国語学校取締法に関する試訴派宣言。以降、仏教系日本語学校が提訴派に加わる。キリスト教系学校は非提訴派(外国語学校法取締法提訴はハワイの日本人社会を引裂く)。
つづく
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