大正12(1923)年
5月上旬
・有島武郎、山陰旅行の帰りに河上肇を3度目の訪問。
山陰の旅先から、河上宛に是非お会いしたい事があるとまず連絡をとって、どうしても日程の都合つかぬことを残念に思うと絵葉書を送ってきた、そのすぐ後の突然の来訪。武郎は、この時、或る用件思い出したと、河上に云い残し20分後に帰る。実は農地に関する財産処理の全てを、河上に監査して貰いたいとの申出だが、河上はこれを丁重に断る。その時の用件・様子から察して、この段階で、武郎に死を決意させるものが確かに起こっていたと、河上は「泉」追悼号に書く。
また、この月、同じく山陰の旅先から与謝野晶子に宛ててうたを送って寄こす。
天(てん)を見て泣けど天ゆゑ泣かずして離れがたかる地のために泣く
われの死と薔薇(ばら)ことごとく落ちん日のありうべくして無き心地する
5月1日
・北京の天安門で張紹會内閣打倒国民大会開催。
5月1日
・第4回メーデー、準備会の段階から厳しい弾圧。
準備会では激論の末、スローガンの一つとして「植民地の解放」を採択(準備会の日付けは、4月9日の「報知新聞」は4月8日、『赤旗』5月号によると4月12日)。しかし、警視庁は「植民地の解放」をスローガンにすることを許可せず(『労働』5月1日)、社会主義ならびにその他の思想団体のメーデー参加を禁じた(『読売新聞』5月1日)。
さらに、5月1日前夜から事前検束を厳しく行い、日本人社会主義者70名、朝鮮人労働者50名、日本人労働者150名を検束(『報知新聞』5月1日夕刊)
当日は会場(芝公園)周囲を警官が取り囲み、「朝鮮人掛」「主義者掛」の警官が朝鮮人や社会主義者を検束した(『東京朝日新聞』5月1日夕刊)
不許可になった「植民地の解放」を掲げた旗はなかったが、「朝鮮の同胞をも解放せよ」という声が会場から上がった(『報知新聞』5月1日夕刊)
演壇に立った孫某は、「自国の独立、プロレタリアの解放」と叫び(『中央新聞』5月1日夕刊)、「労働者に国境はない」とも叫んだ(『労働』6月1日)。彼は、「演壇下の私服から忽ち突き落とされ・・・、四、五名の警官が目茶苦茶に蹴る、踏む、なぐるで、・・・更に手をねじあげ、なお靴でけりながら検束した」(『東京日日新聞』5月2日)。
デモ隊が芝公園から上野公園までの行進中に、刑事が朝鮮人30余名を引きずり出し、交番に投げ込み、更に頭髪をつかんで引きずり、自動車で運んだ(『報知新聞』5月2日)
5月1日
・小田原急行鉄道、新宿~小田原間で開業。
5月1日
・フリッツ・クライスラー、バイオリン独奏会。帝国劇場。~5月5日、18日~20日。
5月1日
・インド、マドラス、最初のメーデー、S.チェティアールの指導
5月1日
・モスクワ、メーデー、正午、開会。軍事人民委員トロツキーの閲兵・演説。荒畑寒村出席。
5月1日
・ドイツ、バイエルン、ヒトラー、5千人動員して国防軍兵器庫から銃器を持出し「陣中要務訓練」挙行計画。州政府により阻止。
5月2日
・パリ、大杉栄、メーデーで過激な演説、逮捕、収監、国外退去へ。7月11日帰国。
林倭衛「フランス監獄及法廷の大杉栄」(『改造』大正13年6月)によると、、、。
4月29日夜、大杉はパリの林倭衛に明朝着くと電報を打った。林が翌朝ガール・ド・リオンに行って待ったが彼の姿は見えず、宿へかえって見ると外套と手提カバンとが置いてあった。大杉は午後になってブラリと部屋へはいって来て、汽車が早く着いて、行きちがいになったといい、それでリベルテユル社にメーデー集会の場所をききに行って来たといいながら、今度は目下つづいている裁縫女工のストライキについて、彼女たちの生活状態の詳細な統計などを示しながら話しはじめた。
5月1日11頃、大杉がやって来て、サン・ドニの集会に行くといっていっしょに外に出て、別れた。
翌日午後5時ごろ、人相のわるい男が5、6人、どやどやと林の部屋に這入り込んだが、大杉もいっしょにつづいて入って来た。「捕まったな」、姿を見た瞬間そう思った、と林は書いている。
大杉栄「入獄から追放まで」(『日本脱出記』)によると、、、。
「リベルテエル社にコロメルを訪ねて、メエデエの当日、セン・ドニの集会で又会おうと云うことになった。メエデエの屋外集会は許されてなかった。労働者のプログラムの中にもそれはなかった。共産党の政治屋共や、C・G・T・Uの首領共は、警官隊との衝突を恐れて、出来るだけ事勿れ主義を執ったのだ。さればその屋内集会も、パリの市内では僅かにC・G・T・Uの本部の集会一つ位のもので、その他は皆郊外の労働者街で催された。イタリアの同志サツコとヴァンツェティとがアメリカで死刑に処せられようとするのに対する、アメリカ大使館への示威運動ですらも、共産党はむりやりにそれを遠い郊外へ持って行ったのだった。」
その日のメーデーの集会場サン・ドニの労働会館は、800人の集まりだった。大杉の期待に反する穏やかな集会だった。「もういい加減に出ろ」と叫ぶ人は『リベルテエル』や『ラ・ルビユ・アナルシスト』(無政府主義評論)の連中だが、それに応ずる声はない。大杉は「コロメルと集会がすんだらある打合せをする筈だったが、もうどうでもいいような気になった。この『そとへ出ろ』の叫びを演壇の上から叫びたくなった」と書く。大杉はコロメルの次に「日本のメエデエについてしゃべりたい」と司会者に申し入れて、やがて演壇に立った。
大杉が「日本のメエデエ」について威勢よくしゃべって演壇を下りて外へ出たところで、4、5人の私服に捕らえられた。
「僕は手どり足どり難なく引っぱって行かれた。やがて警察の前で多勢のインタナショナルの歌が聞えた。警察の中庭に潜んでいた無数の警官が飛び出した。僕は警察の奥深く連れこまれた。(これはあとで聞いた話だが、会場の中の十数人の女達が先頭になって、ただ日本の同志だというだけで名も分らない僕を奪い返しに来たのだそうだ。そして警察の前で大格闘が始まって、女達は蹴られたり打たれたりして、その結果百人ばかりの労働者が拘引されたのだそうだ。警察の中ででもなぐったり蹴ったり、怒鳴ったり、わめいたりする声が聞えた。)」
「翌日は朝早く二人の私服に護送されて、こんどは普通の自動車で警視庁へ行った。」
それから大杉が前にいたことのある下宿屋を連れ歩いて顔を主人やお神にたしかめさせ、そして警視庁へ帰って来ると、外事課の大きな傍の一室で、警視が「君は大杉栄と云うんだろう」と図星をさされた。そのあとで、いっしょに自動車で首実験に歩いた私服の一人が、
「日本でも、うんとメエデエをやったようだから安心したまえ」
といった。また大杉はその時、「共産党の日刊新聞『リュマニテ』のある小さな部分を指さして見せた。『数十名の負傷者あり』という文句がちらりと見えた。又サン・ドニの僕の事に関する一段ぬきの記事も見えた」と記している。"
翌日(2日)は、日本大使館からも人が来て、日本人大杉栄なることが確認され、綿密な身体検査を受けた。
そして、その翌日(3日)朝、大きな囚人馬車でラ・サンテの監獄に送られた。6月3日にマルセイユから追放されるまでをそこで過ごすことになる。
〈獄中で大杉が長女魔子を想うくだり〉
「もう今頃は新聞の電報で僕のつかまったことは分っているに違いない、おとなどもはとうとうやったなぐらいにしか思ってもいまいが、子供は、ことに一番上の女の子の魔子は、みんなから話されないでもその様子で覚って心配しているに違いない。
いつか女房の手紙にも、うちにいる村木(源次郎)が誰かへの差入れの本を包んでいると、そばから「パパには何にも差入物を送らないの」とそっと言ったとあった。彼女をだますようにして幾日もそとへ泊らして置いて、その間に僕が行衛不明になってしまったもんだから、彼女はてっきりまた牢だと思っていたのだ。そして、パパは? と誰かに聞かれても黙って返事をしないかあるいは何かほかのことを言ってごまかして置いて、時々夜になるとママとだけそっと何気なしのパパのうわさをしていたそうだ。僕はこの魔子に電報を打とうと思った。そしてテーブルに向って、いろいろ簡単な文句を考えては書きつけて見た。が、どうしても安あがりになりそうな電文ができない。そしてそのいろいろ書きつけたものの中から、次のような変なものができあがった。
魔子よ、魔子
パパは今
世界に名高い
パリの牢やラ・サンテに。
だが、魔子よ、心配するな
西洋料理の御馳走たべて
チョコレートなめて
葉巻きスパスパソファの上に。
そしてこの
牢やのお蔭で
喜べ、魔子よ
パパはすぐ帰る。
おみやげどっさり、うんとこしょ
お菓子におべべにキスにキス
踊って待てよ
待てよ、魔子、魔子。
そして僕はその日一日、室の中をぶらぶらしながらこの歌のような文句を大きな声で歌って暮した。そして妙なことには、別にちっとも悲しいことはなかったのだが、そうして歌っていると涙がほろほろと出て来た。声が慄えて、とめどもなく涙が出て来た。」
大杉栄『日本脱出記』(青空文庫)
5月4日
・ソ連のインド・ペルシャ・アフガニスタンでの反英宣伝に抗議。ソ連、譲歩。
5月4日
・ニューヨーク州、禁酒法撤廃。
つづく
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