2023年7月24日月曜日

〈100年前の世界011〉大正12(1923)年3月 上海総商会の旅順・大連回収と対日経済絶交運動 左翼労組のためレフト結成 中野重治(21)、体操(軍事教練)で2度目の落第(第四高等学校) 中原中也、「文学に耽りて」山口県立山口中学校を落第(4月、立命館中学校に補欠合格・第3学年に編入)       

 

中原中也

〈100年前の世界010〉大正12(1923)年2月21日~28日 第3次広東政府(孫文) 普通選挙即行国民大会 普選法案上程 普選民衆運動打ち切り 三悪法案反対全国労働組合同盟 より続く

大正12(1923)年

3月

〈中国・韓国〉

・上海総商会、旅順・大連回収と対日経済絶交運動おこす。

・ソウル青年会中心に朝鮮青年党大会。94団体154名参加。

〈日本〉

左翼労組のためレフト結成。野坂ら。

アナ・ポル対立を背景に、総同盟の中で共産主義の影響が広がり、山本懸蔵・野坂参三・杉浦啓一らは、共産党の影響力を拡大して左翼労働組合を作る為、レフトを結成、大阪の西尾末広、名古屋の葉山嘉樹らも会議に出席。こうした共産主義全盛の中で、総同盟は国際労働会議の否認や労農ロシア承認運動を打ち出す。

今村均少佐(37)、参謀本部員兼上原勇作元帥副官。3年半勤める。

米内光政大佐(44)、旧装甲巡洋艦「春日」艦長から「磐手」艦長となる。6月、練習艦隊に編入され、ニュージーランドへ遠洋航海。この遠航に参加した兵学校51期生250余の中に、正木生虎、実松譲、大井篤、板垣金信、安井保門、野田六郎(旧姓藤井)、吉井道教(旧姓清水)、豊田隈雄がいる。

・中国との間で青島公有財産及製塩業補償日金国庫証券借款成立。1,327万5,560円。

・青野季吉「芸術の革命と革命の芸術」(「解放」)。

・荒畑寒村(36)、「政治運動の是非及び能否(アンケート)」(『進め』第1巻第2号 3月号)、「資本主義なればこそ(アンケート)」(同前)、「政治運動に関する一考察」(『前衛』第3巻第3号 3月号)、「日比谷座の聾桟敷」(『解放』第5巻第3号 3月号)。

・宇野浩二「子を貸し屋」(「太陽」)。

・東京・大阪で失業反対運動起こる。

・小笠原プロダクション創立。小笠原明峰が設立した映画研究所。幡ヶ谷の自邸に撮影所を設けて製作。

・太宰治(14)父源右衛門、貴族院議員(多額納税)在任中に東京で没。

・宇野千代(26)「追憶の父」(「中央公論」)。

・平林初之輔「プロレットカルトの話」(『女性改造』)

・中野重治(21)、体操(軍事教練)で2度目の落第(第四高等学校)。この頃、詩「大道の人びと」を書く。

のち、小説「歌のわかれ」で、3学年の落第の年、1923年春さきから卒業までの1年間と、それに続く後の1/3が大学入学直後までのことを書く。

・小林多喜二(20)、「継粗母のこと」「ある時のわれ」((小樽高商『校友会々誌』)。

「継粗母のこと」(2月筆)

秋田時代のことを描く。ヒロインお仙は、健(主人公)の祖父と若くして結婚した。健もお仙になつき、彼女は家族ともうまくいっていた。さてこの継祖母は男の子を生んだ。そのため、自分の子と義理の子との、愛情と義理に挟まれる。健の弟が池にはまって死ぬ。そして健の叔母が気が違う。その二つがすべてこの継祖母のせいにさせられ、彼女は井戸に身を投げるという話で、小説の舞台は本州の農村である。

多喜二には実際に継祖母ツネ(1826-1904)がいた。彼女は彼の生後1年のとき77歳で亡くなっている。小説のように若く美しいうちに自殺したというのはフィクションである。実際、多喜二の兄は病死し、弟多喜二は生きた。だが小説では、兄が生き、弟が死ぬという設定である。多喜二は、秋田の農村時代について母から聞いた事を、小説の道具だての中に入れたと考えられる。

多喜二は4歳で秋田から小樽に来ているので、秋田のことは殆ど記憶にない筈である。

この小説では、この継祖母が義理の子供がいる中で、我が子を愛してゆかねばならない心理状態が描かれている。そして、多喜二はそれに対して同情している。

例えば、健と彼女の子とが喧嘩をする。この時、かの女は、我が子の方を殴りつけ、後で人知れず我が子を抱きしめて泣いている。この話は、彼の他の小説でも用いられ、多喜二お気に入りの筋ではある。

■永井荷風『断腸亭日乗』(大正12年3月、荷風45歳)

三月六日。晴れて風寒し。

三月十二日。春雨歇まず。終日机に凭る。

三月十三日。・・・。風冷なり。

三月十五日。春雨晩晴。泥濘の路を歩み高輪楽天居句會に往く。

三月十七日。快晴。新橋の妓鈴乃に逢ふ。

三月十八日。南風頭痛を催さしむ。日暮俄に雨。

三月十九日。春雨烟の如し。・・・。

三月廿二日。・・・。深夜雨。

三月廿三日。・・・。春風冷なり。

三月廿八日。午前十時過京都驛に着し東山ミヤコホテルに投宿す。此日暖気五月の如し。祇園の櫻花忽開くを見る。夜島原に遊ぶ。

三月廿九日。午後より雨。気候再び寒冷となる。夜玉川屋に飲む。

三月三十日。終日散歩。夜九時半の汽車にて東歸の途に就く。

三月三十一日。朝十時新橋に着す。・・・。"

中原中也、「文学に耽りて」山口県立山口中学校を落第

短歌に打ち込み、周囲から評価され、本人が自覚するとともに学業成績は低下した。中也は山口中学校に残ることを拒否し、父謙助も同じ意見。

京都帝国大学理学部在学中の井尻民男が休暇で中原家を訪ねて来た。謙助は井尻に中也を京都に連れて行ってくれるよう頼んだ。その段階で編入試験に間に合うのは京都の立命館中学校と桃山中学校だけだった。4月8日、中也は立命館中学校に補欠合格し、第3学年に編入

・英、BBC,毎日の天気予報を放送開始。

・ロレンス、T. E. Shaw の偽名で陸軍戦車隊に2等兵として入隊


つづく

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