元久2(1205)年
4月1日
・定家、嵯峨に滞在。~14日。
辰の時、嵯峨に向う。今日より所々の御神事、着服の身は、出仕すべき事なし。よって養性のために籠屠。(『明月記』)
4月3日
・平賀朝雅、吉富荘をめぐり謀書を成す。
4月3日
・良経より、勅撰の事を仰せ合さるべし。参ずべきの由、仰せらる。明後日参ずべきの由申す。(『明月記』)
4月5日
・早旦に京を出て九条に入る。宜秋門院・良経の許に参ず。御神事といえども、この御所に於て、仰せらるべき事等ありと。未の時、良経参ぜしめ給う。台盤所の方に於て、尋ね仰せらるる事等あり。昏景に入りおわしまして、退出す。すなわち嵯峨に帰る。(『明月記』)
4月6日
・通具の消息あり。明日入内の歌詠進すべきの由、仰せらる。其の事、先例を知らず。聞き及ぶもの、示し送るべしと。更にこれを聞き及ばず。末代の事、ただ祝言あやまりなきを以て、先例となすべきの由を答う(『明月記』)
4月7日
「佐々木判官定綱病気に依って出家すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
4月7日
・今夜、従三位麗子入内と。頼実の女で、土御門天皇に入内した。(『明月記』)
(麗子21歳、10歳年下の土御門天皇に入内)
4月9日
「検非違使左衛門少尉源朝臣定綱法師卒すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
4月11日
・鎌倉には何となく不穏の形勢があり、近国の御家人が参集した。また、時政の智稲毛重成入道が、ひごろ武蔵の国に引籠っていたのに、最近になって時政によばれて、郎従らをひきつれて鎌倉にやってきた。何か起こるのではないか、といろいろ噂が流れたという。この騒ぎはやがて静まり、5月3日には大半の御家人が帰国した。
「鎌倉中静かならず。近国の輩群参し、兵具を整えらるの由その聞こえ有り。また稲毛の三郎重成入道、日来は武蔵の国に蟄居す。近曽遠州の招請に依って、従類を引きいて参上す。人これを怪しみ旁々説等有りと。」(『吾妻鏡』同日条)
4月12日
「将軍家(実朝)、十二首の和歌を詠ましめ給う」(「吾妻鏡」同日条)
4月13日
・文義の沙汰にて、地蔵講を修す。(『明月記』)
4月14日
・定家、八条院に吉富荘のことを申し入れる。
4月15日
・定家、静養中の嵯峨から呼び出されて参ずると、良経の仰せにより、散々に切り継ぐ。良経の意見、すなわち定家の内心である。言わぬ事ではない、竟宴など早すぎたと思う。以後17日まで検討続く。
巳の時許りに、京より告げていう、昨夜家長いう、着服にても、御神事全く憚らず。明日早々参上すべしと。すなわち馬を借りて馳せ出で、午の時、院に参上す。新古今、又取り破らる。良経より申さしめ給うの故と。散々に切り継ぐ。今日、功を終えず。あるいは入れあるいは出す。又その所を置き替える。予の歌三首出され、四首入れられる。今度の歌、皆尋常の由存ずる歌なり。悦びとなし、夕に退出す。明後日、水無瀬に幸す。参ずべき由仰せ事あり。(『明月記』)
4月16日
・巳の時、和歌所に参ず。しばらくの後、出でおわします。有家・宗宣・以経等、又これを切り継ぐ。家隆の顔が見えない。疲れたのか。(『明月記』)
4月17日
・後鳥羽院水無瀬御幸。~21日。
4月17日
・巳の時、和歌所に参ず。昨日の残る事、なおなおこれを見る。大嘗会の歌の中、いささか事の由を申し、御定を承る。午の時に、退出す。(『明月記』)
4月18日
・定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕。~25日。
辰の時京を出て、船に乗りて水無瀬殿に参ず。(『明月記』)
4月19日
・巳の時に参上す。例の出でおわしまして、退下するの後、山上を御覧ず。諸人嶮岨を凌ぐと。(『明月記』)
4月20日
・定家、慈円が院に詠進した長歌に返歌するよう命ぜられる。はじめての事であるが、沈思すれば、却って意識の流れがとどこおるので、早速詠む。『拾遺愚草』に収めている。今から見れば、可もなく不可もない挨拶の歌である。
巳の時に参上す。家長、慈円詠進の長歌を持ち来る。この歌に和し進むべきの由、仰せ事あり。長歌かつて未だこれを詠ぜず。卒爾勿論か。ただし出でおわします後に退出し、篇を終る。文の如く点を加えず、形の如くに清書し、持参して家長につけ、内々御覧を経、直すべくば、直し進むべきの由を申す。還り来りていう、神妙なりと。かくのごときこと速きはかえって渋らぬものである。「道ノタメニ不当ナリト雖モ、沈思スルニ依リテ、風情ヲ得ベカラズ。早速〈ハヤ)キニ依リテ、頗ル堪能ヲ表ハスベキノ由、相励マス所ナリ。」(『明月記』)
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿