2023年7月3日月曜日

〈藤原定家の時代410〉元久2(1205)年3月20日~30日 春日井殿で竟宴(事業の終りを告げる祝宴) 定家は開催に反対し不参(そもそも先例不審、かつ未だ完成の域に達していない)     

 


〈藤原定家の時代409〉元久2(1205)年3月3日~18日 『新古今』撰歌の出入り続く 和歌所での作業の後、時々は酒宴 法勝寺九重の塔下で花見・歌会 より続く

元久2(1205)年

3月20日

・通具より『新古今集』竟宴のことを尋ねられ、定家は先例不審と返答。日本紀「竟宴」のことはあったが、それは、日本紀を講じたことの詠史(歴史上の事実を歌で記すこと)であった。

別当の消息にいう、新古今の竟宴、風情を凝らして、予め参ずべき由、催しありと。此の事如何。竟宴の事、先例不審なり。竟宴に答うる事存知せず。延喜に古今、天暦に後撰、管見の及ぶ所、竟宴の事を見ず。ただ見る所、日本紀の竟宴ばかりなり。その事に於ては、日本紀に講ぜらる、人別に、其の人を得て詠一首か。ただ講書の如し。今承る如くば、この歌の体に似ざるか。極めてもって、不審といえり。(『明月記』)

3月21日

・竟宴の事、通具重ねて消息あり。一首の風情を凝らして、あらかじめ参ずべしという。新相公奉行。公卿は直衣、酉の刻という。或人のいう、新古今集披露の日、巻々の始めの歌を講ぜらる。御遊幷びに和歌の会あるべしと。この外全く才学なき者なり。日本紀の竟宴も、何に見えて候いしやらんも、忘却し候い終りぬ。打任せては、竟宴いずれもその巻その人を得たり。今度の無題、極めて大事に候か。(『明月記』)

3月22日

・定家、良経と竟宴について語る。和歌所に参り、十余巻を校合し直す

巳の時許りに、良経の許に参ず。見参のついでに、竟宴の事、昨日承る。其の心を得ざる由申す。仰せていう、昨日長房を以て仰せらる、二十七日以前に、清書出で来るか。又仮名序、その以前に進むべし。又件の日の題を献ずべしといえる。申していう、清書の事、更に叶うべからず。たとい二十日の間に書き出づべきか。仮名序、又更に出で来難し。題の事、ただ新古今功を終えらるるの由の歌、よろしかるべきか。題あるべからざるか。もしくは、清書の序等を待たるるか。暫く延引せらるべし。二十七日に遂げ行われば、この両事叶うべからざる由、申し終るといえり。この事、更に心を得ず。良経、知らしめ給わず。誰れ人の計らい申す事か。この間に慈円参じ給う。御対面の間に退出し、法性寺殿に参じ、女房に謁す。兼実、御不例の体、惣じて以て不便。身を痛ましめ給うこと、日を逢って堪え難し。又御咳、胸つかえる由にて、辛苦し給う。御飲食通ぜずと。僧俗群集す。小時ありて、良経入りおわしますの後、退出す。

和歌所に参じ、書き出す巻々を校合す。総州参会し、十余首見終る。文字等少々直さしむ。暁に退出す。又人のいう、二十七日竟宴の詠歌止められる。ただ巻々の始めの歌を読み上げ終りて後、御遊あるべし。その伶人皆新衆を召すべしと。毎事およそ心を得ず。笙(実方)、笛(親兼)、琵琶(院)、筝(経通、旧を所作)、拍子(親能、同じ)、和琴(有雅)、篳(盛親)。(『明月記』)

3月23日

・定家、和歌所で撰集の沙汰。~25日。

和歌所に参ず。今日聞く、竟宴の事未だ日時を定めず。今日定家、書状を在宣の許に遣わし、日時を勘えしむ。二十六日と。御清書の仮名序等、出で来難し。よって、この中書を以て竟宴を遂げらるるの後、清書あるべし。序を継ぎ加えらるべしと。この事、殊に急ぎ思しめす。定めて事の故あるか。今日又少しこれを見る。申の時許りに退出す。(『明月記』)

3月24日

・早旦、法性寺殿に参ず。兼実の不例、大略同じ事、日数にしたがい、増進するに似たりと。相次いで、良経の許に参ず。天徳入道右大臣師輔の歌、勅撰に見ざる由を申す。この事遺恨なり、尋ね入るべきの由、申すべきなり。午の時許りに和歌所に参ず。良経申させしめ給う旨、家長に付け示す。有家・家隆参入。又一両の巻を見る。いささか酒肴を取り出す。夕に退出す。(『明月記』)

3月25日

・定家復任(父俊成の喪)

和歌所に参ず。終日沙汰なし。晩頭に退下す。殊に窮屈。この集、末だ見るを得ず。その誤り多きか。人数多くして、かえって事の妨げあり。(『明月記』)

3月26日

・この日「新古今和歌集」を奏進。

翌27日、春日井殿で和歌撰集の竟宴(きょうえん、事業の終りを告げる祝宴)。

定家は、内容がまだ十分整理されていないと考えていたのか、竟宴出席を断っている。実は後鳥羽院も同様の考えであったようで、「中がき(書)ばかり」の出来であるが、とりあえず一つの区切りとして竟宴を行なうのだとしていた(『源定長日記』)。

結局、竟宴後早速、院による全面的な切継ぎが始められ、編纂作業がスタートラインに戻ったかの如くなる。更に、新たに物語の中の歌も撰ぶようにとの下命もあった。

早旦。良経の許に参ず。竟宴になお参ずべきの由、仰せらる。(『明月記』)

3月27日

・『新古今集』竟宴に、定家不参。定家は、不参ながら夜前の竟宴の儀の大略を記録している。

良経参じられて後、院、神泉苑より還御。御湯殿の後、御渡。数刻の後、御めざめあり。今夜、院に於ては詠歌すべからざる由、仰せ合せらる。更にしかるべからず。もっとも御製あるべきの由、良経申し給う。その歌を御案じ、二首見合せられ、一首ばかり申きしめ給う。御清書終りて出でおわします。

丑の時か。弘御所に於て、この事あり、良経・前太政大臣(各々冠・直衣)、先ず座におわします。やや久しくして、出でおわします。家長、御前の緑に在り、仰せ承りて、公卿を召す。左衛門・右衛門・隆衡・経家(束帯)、参上して着座す。相国、仰せを伝えて家長を召し、有家を召す。有家文台の下に参上す。あらかじめ文台・切り灯台を儲く。新古今集、文台の上に在り。序を読む。通具卿、講師の後に参じてこれを詠ず。春の部のはじめ四五首を詠じ終りて、講師退出す。ついで、歌人次第に歌を書く。兵衛佐具親以上、秀能・清範・家長、歌を人に付して、これを置かしむ。忠定・宗宣・雅経・親房・家隆・家衡・得季・経通・有家。公卿上を見る。良経座を起たずして、置かしめ給う。ついで家隆を召す。家隆参上して講師。有家仰せにより、講師の後に参じて詠吟す。終って、歌人退下す。ついで伶人着座す。殿上の五位、御遊の具を置く。御遊終って入りおわします。人々退出す。良経、九条殿に帰りおわしますと。午の時許りに退下す。

「抑々(そもそも)此ノ事、何故ニ行ハルル事カ。先例ニアラズ。卒爾ノ間、毎事(ことごと)ニ調(ととの)ハズ。歌人又歌人ニアラズ。其ノ撰不審ナリ。」(『明月記』)

籠居の定家のきびしい批判である。夜中の2時からの宴であった。

3月28日

・定家、和歌所で竟宴歌を書記する。『新古今集』なお検討するよう仰せあり

家長参ずべきの由を示す。すなわち、和歌所に参ず。竟宴の歌を持ち来る。これを書き記す。勅撰なお見るべきの由、仰せ事あり。よって少々引き見る。賀の部の子の日の歌、清正・経信の歌相似たり。よって夾算を加う。又哀傷の部、或る所より撰進する、和泉式部に返事の上東門院の歌、周防の内侍が歌に相似たり。この二首奏せしむ。仰せ、経信の子の日を止むべし。哀傷の部の二首、除くべからず。相並べて入るべしと。宗宣(書き手)参ぜず。今日、直さず。(『明月記』)

3月29日

・定家、『新古今集』の誤謬を指摘、目録を添えて進上

定家、良経の『新古今集』仮名序草案を見て感動する

法性寺殿に参ず。兼実、いささか減じ給う。ついで良経の許に参ず。慈円参じ給う。撰歌の間の事、しきりに召し問わる。又仮名序の御草賜り、これを見る。殊勝。もっとも急ぎ迫覧せらるべき由、はからい申し給う。愚意また以て同じ。仮名序にいう、古今殊に尋常にあり難き事かと。この御文章、真実不可思議、比類なきものなり。

「終日御前に在り。夕家長新古今和歌集を持参す。先ず御覧を経る。紕繆等直せらるべき由これを申す。信定これを取り持参す。両三度尋ね仰せらるる事等有り。」

又狼籍の目録を相そえて進上す。家長退出す。秉燭以後に退下。(『明月記』)。

3月30日

・午の時許りに、和歌所に参じ、退出す。(『明月記』)


つづく



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