1892(明治25)年
2月5日
松方首相、天皇に辞意を言上(伊藤新党問題に絡む混乱解決のため)。後任候補を伊藤とし、7日か8日に伊藤と会見予定。但し、伊藤は松方の辞意を知らず。
2月6日
夜、陸奥宗光、小田原の伊藤博文へ急報。陸奥は井上より松方の秘策(辞任)を知り、口止めされているが、伊藤の新党結成は政党政治への飛躍と考え、これを報告。伊藤は、松方に対し、井上へ内閣の混乱に関与したくない旨伝えるよう依頼。
7日朝、伊藤は、伊東巳代治経由松方に7日の会談中止と一両日中に上京の旨伝える。
9日、伊東巳代治が東京~小田原を往復、松方・井上に元勲会議開催要請への回答を促す。井上は枢密院議長を思いとどまるよう要請。
2月7日
フランス、労働取引所連盟創設。全国の労働取引所により構成。地域的編成原理をもつナショナル・センター。マルクス主義系の全国労働組合連盟(1886年結成)に対抗、取引所を未来社会の萌芽とするアナーキストによって主導。各地の労働取引所開設を助けるとともに労働者の組織化・スト支援を積極的に指導し、’90年代の労働運動の発展を担う。
2月10日
この日山県が、12日井上が、伊東を説得。失敗。
14日、松方・伊藤会談。首相後継を申し出るが峻拒。
2月14日
一葉(20)、この日、片恋を骨子とする「闇桜」が完成し、翌15日に原稿を届ける。
15日、持参したその場で原稿を読んだ桃水は、出来ばえを誉め、一葉だけは毎月掲載するので、そのつもりで書くようにと励ます。『武蔵野』は、桃水が一葉を世に出すために創刊したもので、朝日新聞主筆の小宮山にも「闇桜」を読ませ、小宮山の「氏が説には、むさしのは君が所有のぬしたるべし」という言葉を一葉に伝える。
2月15日
第2回衆議院総選挙
内相品川弥二郎・次官白根専一の大干渉選挙。政府は予戒令をしき、府県知事は警察官を指揮し、お雇い壮士を使って民党派の選挙運動を妨害。死者25人・重傷者400人を出すほどの政府による大干渉にも拘らず民党の勝利、民党(自由94、改進38、独立倶楽部31)・吏党(中央倶楽部98・無所属42)。
栃木1区自由党星亨、前代議士横堀三子を排斥し当選。栃木3区田中正造当選。石阪昌孝当選(第3区投票結果:石阪昌孝890票、瀬戸岡為一郎720票、吉野泰三663票、平林定兵衛317票)。
自由党内部には、①土佐派(片岡健吉、竹内綱、林有造ら)、②九州派(松田正久ら)、③東北派(河野広中ら)、④関東派(大井憲太郎、星亨ら)の4派があり、片岡健吉、大井憲太郎らは落選。
神奈川3区は、民党派候補者が石阪昌孝・瀬戸岡為一郎、対立候補として北多摩郡から吉野泰三、八王子町から平林定兵衛。吉野・平林は反自由党の姿勢を鮮明にしており2人は官憲から吏党として扱われ、自由派・吉野派・官憲が入り交じって抗争。
吉野泰三は、第1回総選挙の敗北直後の明治23年8月15日正義派を解散、1ヶ月後の立憲自由党の入党。しかし、新潟県の山際七司らが立憲自由党を離れて「国民自由党」を結成すると、これに同調(国民自由党は対外硬を主張する国権主義的党派)、常置委員・評議員に選出。だが翌年2月、病気を理由に国民自由党の役職を離れる。第2回総選挙には、吉野は砂川源五右衛門(自治改進党社長・北多摩郡長経験)を担ぎ出す一方、南多摩郡の青木正太郎の立候補を画策するが、青木・青木は拒否。結局、自ら出馬し南多摩郡から平林定兵衛が名乗りを上げ、民党の石阪昌孝―瀬戸岡為一郎、吏党の吉野泰三―平林定兵衛との対立構図となる。選挙後、吉野泰三は、選挙干渉の責任をとって内相辞任した品川弥二郎らが、6月下旬に結成した「国民協会」に加盟(国権拡張と積極主義をとり松方内閣に親和的な政府党)。
「大矢正夫自序伝」:神奈川県警察は第3区に巡査30余を派出、平服の巡査を公然と遊説させ、遊説者を護衛するとして制服巡査を同伴させ吏党候補の選挙支援に奔走、時には買収・威嚇・恐喝・無頼の徒を使って強迫。また、自由党の運動家を村に閉じこめたり、警察分署に留置するなど選挙運動の直接妨害。自由派と吉野派は選挙人獲得のため、運動人による買収や、仕込み杖を持った壮士が横行、斬り合う場面も。
2月19日
夕方、天皇指示で松方・伊藤会談。埒あかず23日元勲会議となる。
23日、伊藤・井上・山県・大山・黒田・西郷・松方。伊藤は新党結成断念表明。
2月21日
日本初の日刊紙「東京日日新聞」(現毎日新聞)、創刊。
2月22日
アメリカ、人民党がセントルイスで正式に結成.
2月24日
枢密院議長伊藤博文、辞表提出。
26日、徳大寺侍従長が小田原に赴き辞表を差戻す。
27日、松方の依頼で黒田が伊藤と会談。この時、伊藤は、選挙干渉に関連して陸奥・後藤と連携しているとの噂を否定。
3月11日、辞表撤回。天皇の慰留の宸翰頂戴。
2月29日
子規、本郷追分の奥井邸内から下谷区上根岸88番地(羯南宅西隣)に移転。この下宿は谷中の墓地から1丁ほどはなれた線路際にあり、朝から、脳天につきあげる激しい頭痛に悩まされていた子規は、汽車が通るたびに家が震動するのを耐えがたく感じた。
その数日前、子規は、谷中天王寺町の幸田露伴を訪問し、「月の都」の批評を依頼する。
露伴は、子規の自信過剰、押しの強さに反感を感じたようで、子規の小説を全く評価しなかった。
3月1日付けの松山にいる河東碧梧桐・高浜虚子宛ての子規の手紙の追伸に、
「拙著ハまづ、世に出(いづ)る事、なかるべし」
とある。
この時、露伴は「国会」の小説記者として『五重塔』を連載中で月給60円を得ていた。「国会」は、明治21年(1888)7月に「めざまし新聞」を買収して東京に進出した「朝日新聞」の村山竜平が、明治23年(1890)11月、東洋の「タイムズ」を目標にして発刊した高級紙。
子規は漱石に『月の都』の不首尾を隠していた。子規は、
「露伴に『月の都』を見せたら、眉山、漣(さざなみ)の比ではないと激賞していた。どうだえらいもんだろう」
と吹聴したので、漱石はしばらくそれを信じていた。
だが心中悶々としていた子規は、一方で人を介して二葉亭四迷(長谷川辰之助)に、自作の評を仰いだ。二葉亭の批評も冷淡なもので、子規の「脳痛」は執拗に続き、ときどき「精神昏乱」の徴候があって学業は事実上放棄された。
漱石の回想 -。
『月の都』を露伴に見せたら眉山、漣の比で無いと露伴もいつたとか言つて自分も非常にえらいものゝやうにいふものだから、其時分何も分らなかつた僕もえらいものゝやうに思つてゐた。あの時分から正岡には何時もごまかされてゐた。 (漱石談「正岡子規」)
つづく
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