2024年3月11日月曜日

大杉栄とその時代年表(66) 1892(明治25)年6月 一葉(20)、桃水との仲を噂され歌子の助言もあり桃水との師弟関係を絶つ 花圃の仲介により「都の花」への作品掲載の話が纏まる(文学的転機) 子規「獺祭書屋俳話」(『日本』38回) 

 

子規『獺祭書屋俳話』(明治26年5月)

大杉栄とその時代年表(65) 1892(明治25)年5月 田中正造、再び鉱毒事件質問状提出(第3議会) 漱石、東京専門学校(現・早稲田大学)講師 一葉「五月雨」完成 池辺三山(28)パリに向かう 子規「かけはしの記」(『日本』) より続く

1892(明治25)年

6月

北村透谷「我牢獄」(「女学雑誌」)

6月

森鴎外「早稲田文学の後没思想」(「志がらみ草紙」)

6月

米ホームステッド鉄鋼労働者スト。この年中1200件のスト発生

6月2日

フィリピン民族同盟結成。民族運動家ホセ・リサール(31)、スペインより帰国

6月4日

日本初の水力発電所が京都に完成

6月4日

メキシコ、新鉱山法が制定。

6月7日

この日、桃水は一葉を尾崎紅葉に紹介しようとする。

桃水は一葉を呼んで、「月々に極めての収入なくは、経済のことなどに心配多からんとて、是をもよくよく斗(ハカ)らはんとす」(「しのぶぐさ」明25・6・7)と言い、紅葉に会うよう勧める。

6月7日

フィリピン民族同盟参加アンドレス・ボニファシオ、武力革命秘密結社カティブーナン結成

6月11日

漱石、比較宗教及び東洋哲学のレポートとして「老子の哲学」を書く。この日に脱稿。

6月12日

この日、中嶋歌子の母幾子の10日祭。一葉、伊東夏子から桃水との関係について芳しくない噂が広まっているとの忠告を受け、また歌子の助言により、師弟関係を解消して離別を決意。以後、桃水に対する苦悩が続き、その過程から非存在の意識や達磨の渡江にヒントを得た「舟」の思想が生まれた。

伊東夏子から、「君は世の義理や重き、家の名や惜しき」という謎のような質問を受け、「君と半井ぬしとの交際断ち給ふ訳にいかずや」と言われる。伊東は、訳は別の日に話すがそれでも交際をやめないのならば、自分も疑うかもしれないと言って嘆く。

14日夜、一葉が歌子に相談すると、歌子は、一葉が桃水と結婚の約束をしたのではなかったのか、桃水は一葉のことを妻と言いふらしている、と言う。しかもこの噂は、女中などが言うには、萩の舎周辺では知らない人がないほどに「うき名立に立たるなり」と言われる。

「我一度はあきれもしつ、一度は驚きもしつ。ひたすら彼の人にくゝつらく、哀潔白の身に無き名おほせて、世にしたり顔するなん、にくしともにくし。成らばうたがひを受けしこゝらの人の見る目の前にて、其しゝむらをさき、肝を尽してさて我心の清らけさをあらはし度しとまで、我は思へり」(同6・14) 

一葉は、歌子に対し桃水への怒りをあからさまにすることで身の潔白を示し、明日は桃水のところへ行って交際を絶ちますと、その場で絶交を約束する

6月14日

漱石、「御粗末ながら呈上」と裏書きして、子規に写真を送る。

6月15日

第3議会、第2議会同様に建艦費と製鋼所設立費を再び削除し、閉会。

6月15日

一葉、桃水を訪れる。萩の舎での葬儀の時の島田髷のままなので、桃水はこれを美しいと誉めるが、一葉は、歌子のいう通り「ことつくろひてもの語り」、紅葉への紹介を断っただけで帰宅する。

6月16日

田中不二麿法相、参内奏上のうえ松岡検事総長に懲戒裁判開始申立て指示。刑法上の制裁は免れても、懲戒法上の制裁は免れない。

6月16日

歌子の手配なのか、田辺花圃が萩の舎を訪れる。一葉は桃水との絶交を告げ、『都の花』に作品を出す相談を交わす。

6月18日

田中不二麿法相、法典延期法案(帝国議会を通過したが)の裁可奏請をすべきでないと主張。20日、辞表提出(懲戒訴追請求で司法部の恥を外部に晒した)。23日、免官。「弄花事件」の引責・松岡首相の優柔不断に業をにやす。後任は河野敏鎌農商務省兼任。

6月18日

子規、ルドヴィッヒ・プッセの哲学の試験をすっぽかす。翌19日、漱石は子規に宛ててた手紙で追試験を受けることを勧める


「凸凹昨(きのふ)君の青白の容を拝むに、何ぞ累々として喪家(そうか)の犬に似たるや。就(つい)ては九時頃プツセの試験問題到着、皆哲学の試験を済せ了んぬ。処が君の平生点があれだから困る訳だけれど、咋日の様な条件のある試験だから、後から受る事も出来るだらう故、都合次第左様談判可相成候。先は用事まで早々頓首」(明治25年6月19日付子規宛漱石の手紙)


「愚生試験も大略完結致し只一科を余す丈の部に相成候」(6月27日付け在松山高浜虚子・河東碧梧桐苑の子規の手紙)

「かういふ有様で、試験だから俳句をやめて準備に取りかからうと思ふと、俳句が頻りに浮んで来るので、試験があるといつでも俳句が沢山に出来るといぶ事になった。これほど俳魔に魅入られたらもう助かりやうはない。明治二十五年の学年試験には落第した。リース先生の歴史で落第しただらうといふ推測であった。落第もするはずさ、余は少しも歴史の講義聴きに往かぬ、聴きに往ても独逸人の英語少しも分らぬ、おまけに余は歴史を少しも知らぬ、その上に試験にはノート以外の事が出たといふのだから落第せずには居られぬ。これぎり余は学校をやめてしまふた。これが試験のしじまひの落第のしじまひだ。」(『墨汁一滴』)

6月22日

一葉(20)、桃水宅を訪れ、しばらく交際を断つ了解を求める。師弟関係を事実上解消。心ひかれながら別れ、別れてなお、一葉の思いは桃水を離れず、日記には桃水を慕う気持ちを書きつける。

一葉は、桃水に借りた本を持って桃水を訪れ、萩の舎で「君様と我れまさしく事ありと誰も誰も信ずめる」と伝え、自分が通う限りは人の口を塞ぐこともできない、暫くお目にかかれない、と伝える。桃水は、疑われるのは無理のないことだ、野々宮菊子から、一葉は嫁に行かれぬ身と聞き、それならば聟の世話をしたい、自分が家を出られる身であれば養子にもらって戴きたい、などと話したことが言いふらされたのだろうと言う。「今仰せられし様に恩の義理のとけがにもの給ふな、我は御前様よかれとてこそ身をも尽すなれ、御一身の御都合よき様が我にも本望也」と慰め、時には来て下さい、お一人でいるからこういうことになるので、身を固めたらよいでしょうと、言う。

「此人の心かねてより知らぬにしもあらねば、かう様の事引立しつるにくさ限りなけれど、又世にさまざまにいひふらしたる友の心もいかにぞや、信義なき人々とはいへ、誠そら言斗り難きに、夫をしも信じ難し、あれと是とを比べて見るに其偽りに甲乙なけれど、猶目の前に心は引かれて此人のいふことごとに哀に悲しく涙さへこぼれぬ。我ながら心よはしや」(6・22)

中島歌子に勧められ、桃水に交際を絶ちたいと伝えるが、その代わり歌子の意を受けた田辺花圃(後の三宅雪嶺夫人)の紹介で、一流文芸雑誌「都の花」に執筆できることになり、11、12月同誌に「うもれ木」発表、「文学界」創刊準備中の平田禿木・星野天知らの注目を浴び、爾来「文学界」グループの若い文学青年に取り囲まれ、彼らとの交友により桃水の古い文学から自らの文学に組み替えて行く(一葉にとっての重大な文学的転機)。

花圃はその後も小説を発表するが、創作力も落ち一葉に逆転され小説を書かなくなる。一葉没後、周辺の人達は多くの回想録を書き一葉を讃えるが、花圃だけは批判的で、あら探しが多く、「その頃の私達のグループ」(婦人サロン昭和6/1第3巻1号)で一葉は嫉妬深くひねくれていて、ひがみ根性で素直でなく「私も遂になっちゃんの偏狭な猜疑心から分かれてしまった」と書く。伊東(田辺)夏子は「一葉の想い出」(潮鳴会会誌昭和21/9昭25単行本化)で逐一反論し『馬場孤蝶に「あれだけ出鱈目を言はれてなぜ黙っているのか」と抗議したところ「又始まった位に思いましてね」と吐き出すように言った』とある。

6月23日

ハイル・セラシエ、誕生

6月25日

ドイツ前首相ビスマルク、ウィーンを離れる。息子がオヨス伯娘とウィーンで結婚するため滞在。ビスマルクは、オーストリアに極秘にロシアと再保障条約を結び国家間の審議に反したとヴィルヘルム2世に非難される。

6月26日

子規「獺祭書屋(だつさいしよおく)俳話」(38回『日本』~10月20日)掲載

子規は、10月に退学を決めるまで、留守のときもあったものの、計5回ほど露伴宅を訪ね文学談義を交わしている。子規が露伴宅を訪ねた日のようすを7年後に回想して書き記している。


露伴子天王寺のほとりに住みて五重の塔などものせし程の事なりけん、ある日おとづれけるに例の如く木戸より奥へ行けと取次の人いふ。木戸押しあけて内に這入れば十坪には足らぬ狭き庭の真中に松の木茂りて昼も小暗き下蔭に紫陽花の大きなる花、これはと思ふ程に咲きひろげたる色の、庭の調和を破りたる、かへりて趣あるを覚えしが今に忘れず。 (「夏の草の花」『日本附録週報』明治32年7月31日)


中庭に紫陽花が咲いていたころで、「今に忘れず」とあり、子規にとっては小説をあきらめた時期と紫陽花の開花が重なりひときわ印象深かっだようだ。

6月26日

米、パール・バック、誕生

6月28日

懲戒裁判所原田裁判長、被告に裁判開始通告。

6月28日

大井憲太郎、立憲自由党脱党。御用党化のため。11月6日東洋自由党組織。


つづく

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