2024年3月20日水曜日

大杉栄とその時代年表(75) 1892(明治25)年10月26日~11月6日 子規、東京帝大退学 子規「日光の紅葉」「我邦に短篇韻文の起りし所以を論ず」「第六回文科大学遠足会の記」 黒岩周六(30)「萬朝報」発行 大井憲太郎、東洋自由党結成           

 

黒岩涙香


1892(明治25)年

10月26日

子規、東京帝国大学文科大学国文学科を正式に退学。常磐会給費もこの月で終わる。


「子規が正式に東京帝国大学文科大学国文学科を退学したのは明治二十五年十月二十六日のことだ。子規はその日、西片町に住む友人得能秋虎の部屋を訪れ、「今大学へ行つて退学の手続をして来た処だ、コレデ自由の身になってサツパリした」と語った。子規はその三週間ほど前に、陸羯南のもとを訪ね、退学後の身のふり方、つまり『日本』への就職を相談していた。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲』(新潮文庫))

10月27日

子規、日本新聞社からの帰りに帝国大学文科大学に立ち寄る。漱石、子規に誘われて牛鍋・豊国楼で夕食をし、酒を飲んで子規の家(下谷区上根岸町88番地、現・台東区根津2丁目)に行き泊る(推定)。

子規、「酒のんで一日秋を忘れけり」(『獺祭書屋日記』)と詠む。

10月29日

子規、内藤鳴雪とともに日光に遊び、31日帰る。紀行文「日光の紅葉」を11月11日『日本』に発表。

正岡子規「日光の紅葉」(青空文庫)

31日、東照宮に参拝のあと、日光から東京へ戻る。

この日、子規は大学退学の手続きを終えたことを、得能秋虎に伝える。

秋虎は、大鐙閣の『子規言行録』で、この日のことを追悼している。


「僕が初めて君を知ったのは、25年の夏、故竹村黄塔の送別会場で、それからは折々往来してきたが、確かその年の十月頃であったと思う。ある日、卒前西方町の僕の寓居にやってきて、今大学へ行って退学の手続きをしてきたところだ。これで自由の身になってさっぱりしたとの話、僕は退学のことはひそかに不賛成であったが今更仕方がないから、そーかといって、その日は豚肉を煮て、夜に入るまで互いに気炎を吐いた。その頃は僕も元気があったが、君なかなか意気壮出会った。その時の清興は今に忘れられぬ」

10月30日

軍艦「千島」が愛媛県沖でイギリス船と衝突して沈没

10月30日

大日本私立衛生会・伝染病研究所(主任北里柴三郎)、福澤諭吉後援で設立

10月30日

子規「我邦(くに)に短篇韻文の起りし所以を論ず」(『早稲田文学』)。


「この論文は「俳句のアイデンティティを「日本」とその自然の中に見いだそうとする」「地政論的俳句論」(鈴木章弘『赤い写生-写生する主体の揺れ』、『国文学解釈と教材の研究』二〇〇四・三)の試みであった。

子規はまず、論文の冒頭で「日本は美術国なり」という「通説」が「方今世界に伝称」していると宣言する。そして「日本」が「美術国」になった「原因」は二つあるという。

「第一の原因」は、「日本」が永い問「外国との交通を絶ち」、「一島国の内にて衣食住豊かに生計の用を充たすこと」が出来たところにある。すなわち「天下安穏」で「内訌外患の虞少き」ことで、「衣食足り」ることによって「消極的快楽」が満たされていたので、「積極的快楽」としての「美術」を発達させることが出来た、という論理である。

「第二の原因」としては、「我国の地」は「到る処」が「絶風光」であったという、自然そのものが「山あり奇にして秀」」水あり清にして快」、つまりは自然そのものが美しかったことをあげ、「山水明媚」が「美術国」の基礎を形成した、と子規は言う。

そして「美術の一部分として」の「文学」の特質も、この「二原因」に規定されているとして、子規は、「日本」における「文学」の中の「韻文」の歴史を概観していく。

「奈良朝」の「万葉集」には、「五言七言の配合」を中心とした定型を基本にした、「長歌」も「短歌」も収録されていた。この段階ではまだ、「長歌の前途」については「大に望を属すべき」状態にあった。けれども「平安朝に於て」は、「三十一文字の短歌のみ」がもてはやされるようになり、その後「一千年」の「日本」の「韻文」の「歴史」において、「長歌全く圧せられて短歌独り勢を得る」という事態になってしまったと、子規は「日本」「韻文」史を概観している。

ではなぜ「長歌」は発達することなく、「短歌」だけが「勢を得る」状況になったのか。「原因」はやはり二つあると子規は言う。「第一の原因」は、「文学」としての 「韻文」が、「公卿」(貴族階級)たちがつくる閉鎖的な「公卿社会」における「遊技」、あるいは「娯楽」だったことにある。

「公卿社会」という閉鎖的「上流社会」において、その構成員であることを証明するための、「題詠」や「歌合せ」といった社交儀礼的な「遊技」としては、「三十一文字」の「短歌」が最も適していたのである。

「短歌独り勢を得る」状況を生み出してしまったもう一つの「一大原因」は、先に子規が提示した国土の「山水明媚」という条件に基づき、「天然」の「雅景」を「模写」すれば足りるという発想の中で、「数十字の短篇にても可なる」表現領域が形成されてしまったというところにある。

ほとんどの「短歌」が、「山光水色」「花木竹草」が「直接に吾人の心裡に生じたる表象」に「極めて僅少の理想を加へ以て」、「一首の韻文を構造するに過ぎ」なかったのは、やはり事実である。「人情を叙する」と言っても、「恋歌」「離別歌」「羈旅歌(きりよか)」といった、「最簡単なる観念の範囲」、すなわち類型から出ることがなかった。

そして「短歌」の場合、「古語の外に新語を用ふるを許さず」、「古文法の外に新文法を用ふるを許さ」なかったために、「武断政治の時勢」以後は、この「平和的文学」は「地に堕ちて復び振ふこと能はざりき」という事態になったのだ、と子規は総括する。

しかし、「徳川氏」の平和な時代に「新言語」と「新意匠」を許容した「俳句」という「十七字」の「限れる短篇」が「起りて」、「韻文の面目を一新した」。さらに「俗語を用ふるを許した」ことによって、「全く無学文盲の俗人」たちも参加することが出来るようになった。いわばほとんどの人たちが、みな「小文学者」になりうる時代になったのである。

この「俳句」に正面から向かい合うことなしに、「我邦の韻文」の「未来に於ける趨向(すうこう)」を見さだめることは出来ない、と子規は言う。この俳句に国民文学を見出したところに、子規が俳句ジャーナリストになる必然性があった。

日本における「短篇韻文」の系譜が、「叙事」を回避し、単純な「叙情」と「叙景」を専らにしてきた帰結として、「俳句」という最も短い短詩型ジャンルが成立したのだとすれば、「俳句」によって「叙事」をする試みによって、このジャンルを内側から変革することが出来ると考えるのは、一つの論理的必然だと言えよう。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))

11月

ロシア東洋艦隊、日本に寄港。伊藤首相は衝撃を受け、海軍拡張計画に同意をとりつける目的で、自由党総理板垣退助と芝紅葉館で会合、竹内綱提案「政府と自由党と提携し、漸を以て政党内閣を成立」させることに理論上異議がないことを承認。

11月

日本労働協会、成立。翌年、「最暗黒の東京」「貧天地餓寒窟」刊行。「日本之社会軋轢並救済法」では、今後の日本の最大の社会問題の根源は「社会下層の労働者、すなわち多数小民の動揺なるべき」と警告。

11月

西園寺公望(42)、貴族院副議長に任じられる。またも閑職。

11月

国木田独歩「田家文学とは何ぞ」(「青年文学」)

11月

ヴェルレーヌ、オランダに講演旅行。

11月1日

黒岩周六(30)、「萬朝報」発行。秋、都新聞の山中社長が、経営権を元代議士楠本正隆に売却、楠本は経営方針に従わないスタッフを馘首。周六は朝日新聞、中央新聞に誘われるが、共に馘首されたスタッフの雇用が認められず。

「創刊は明治二十五年十一月である。古慨黒岩周六と署名した発刊の辞が掲載されている。何人にも読み易いように総ルビつきで平易に書かれており、『万朝報』の値段の安く、記事が簡単・明瞭で、その文章の平易で通俗にしたことが強調されていた。そして最後に自主独立の立場を高揚して「我社は唯だ正直一方、道理一徹あるを知るのみ、若し夫れ偏頗の論を聞き陰険邪曲の諦尊を見んと欲する者は去て他の新聞を読め」と書いていた。小新聞には見られない強い放言であって、そこに黒岩の強烈な性格と同時に『万朝報』の態度が鮮烈に表現されている。」(伊藤秀雄『黒岩涙香』)

11月2日

子規、愛媛学生親睦会に出席。

11月3日

ギニア湾岸奴隷貿易国ダホメー王国、フランスの植民地化に抵抗して戦闘。

11月5日

子規、第6回文科大学に参加し(漱石は欠席)、数ヶ月前までの級友たちとともに妙義山に旅する。1泊。子規は、幹事だった菊池謙二郎の依頼で、俳句と紀行文を兼ねた『第六回文科大学遠足会の記』を書いている。 

 5日は雨だったが、磯部停車場から妙義山のふもとにある宿「菱屋」を目指し、二里の道を歩くうちに雨は上がる。翌日、宿から妙義山の金洞山に登り、社務所で写真を撮り、その後、山の難所をめぐり、下山して磯部から上野まで汽車で帰る。


「明治廿五年十一月五日(土曜日)午後、時大雨を侵して上野停車場まで押し寄する面々の打扮(いでたち)、如何にと見てあれば、頭には大学の紋所うつたる四角の帽子を目深にいただき、金釦(ボタン)威しの上着、同じく金釦おどしの外套に身をかため、あるは蝙蝠、あるは捨ッ木(ステッキ)、思い思いの得物をりゅうりゅうと打ち振りて進みいでたる有様、かいがいしくもまた恐ろしかりき。まッたこなたの一手を見れば、高帽低帽釜形帽を猪首に着なし布の腹巻、木棉の羽織に惣身をかため、足には小倉の書生袴を穿って裾短かに絞りあげ、長刀形の草桂をふみしめふみしめ、蛇の目の傘を真向に振りかざしたる身軽の打扮は、あっぱれ強の者とぞ見えたりける。 (略)」(第六回文科大学遠足会の記)

11月6日

大井憲太郎、東洋自由党結成(8月結党、この日結党式)。400人。機関誌「新東洋」。

普選実施のため「普通選挙期成同盟会」、労働者・小作人保護のため「日本労働協会」「小作条例調査会」設立。福田友作は前2者の役員となる。

対外的には強硬論、海外進出を主張。’93年10月大日本協会の結成に参加して内地雑居反対運動を展開。同年12月解散。


つづく


1 件のコメント:

西蒲原有明 さんのコメント...

「大日本私立衛生会・伝染病研究所(主任北里柴三郎)、福澤諭吉後援で設立」は11月30日ではないでしょうか。