1893(明治26)年
5月23日
徳富蘇峰の「国民之友」、条約励行論提唱。
日本人が真の平等を勝ち取るためには国民的な運動によって現行条約を「正当」に励行しなければならないと主張。さらに、現行条約の励行が外国人にとっても不合理であることを悟らせ、外国の側から条約改正を求められてこそ対等条約が実現するであろうと論じた。これは、この年2月15日に自由党が提出した条約改正上奏案が衆議院秘密会で審議され、内地雑居の是非が審議された結果、135対121で上奏案が可決採決されたことに対する「内地雑居尚早派」側の危機感を背景としていた。
改進党は、励行論での政府が「戦略上で上策」(攘夷論で幕府に迫ったのと同様)とみて、大井憲太郎の大日本協会、山県系の国民協会に対外硬による協力を呼びかけ、小会派も含め対外硬6派を形成。統一綱領は自主外交・責任内閣。ここに対外硬派対政府・自由党の「政界縦断」構造できる。
第4議会後、政府と自由党は接近するのに対し、他の政党は条約改正に反対する条約励行論を唱え、対外強硬論に傾斜。「国民協会」(会頭西郷従道・副会頭品川弥二郎)は、国粋主義の立場から条約改正に反対するが、政府と自由党の接近とともに、政府への反発を強める。また東洋自由党(自由党関東派を星に奪われた大井が、明治25年に脱党し主宰する小会派)も国民協会に歩調を合わせる。国民協会を中心とする5派は対外強硬論を唱え、大日本協会を結成、第5議会での政府攻撃に備えているところに、改進党がこれに合流し、反政府の対外硬6派が出現。改進党はもともと条約改正推進論で、大隈自身、外相として改正交渉にあたった事もあり、条約励行論は明らかに方針転換。
対外硬派は千島艦事件で結束を強める。ノルマントン号事件と同様、領事裁判権の不当性が改めて明らかにされ、上海での判決が大日本協会結成時期と重なり、対外強硬論はますます勢いづく。こうして、第5議会開会までに、対外硬6派による反政府、反自由党連合ができあがる。
条約励行論:
条約に明文規定のない事柄を一切許さなければ、外国人は不自由さに堪えられなくなって条約改正に応じるだろう。居留地外への旅行は事前許可が必要、不動産取得禁止は事実上野放し。背景には、攘夷思想の流れをくむ、非内地雑居論・内地雑居尚早論がある。
伊藤内閣が、自由党を準与党とする事で政界再編成となる。第4議会まで、自由党と共に議会内多数派を形成し、貴任内閣完成と内治優先を主張していた立憲改進党と立憲革新党は、同盟者を失い新たな提携者を求める。一方、吏党といわれ非内地雑居論に同情的な国民協会は、自由党に準与党の座を奪われ、反伊藤内閣的傾向を深める。三者は、自由党と伊藤内閣に反対する点で一致、強力に対外強硬論を主張する大日本協会を核に、条約励行実施と貿任内閣主義採用を統一綱領とする野党連合、対外硬派を結成。
5月23日
子規、漱石を訪問。
5月23日
一葉(21)、今日から日課を決める。
朝6時から7時まで習字、10時まで読書、12時まで執筆、昼食、食休み、午後は針仕事や洗濯、なければ執筆。夕方は自由時間。夜は思慮、思索、就寝。(雑記「やたらづけ」)
5月25日
浜田広介、誕生。
5月25日
西村釧之助が来訪。雑談をする。西村家は以前妹邦子との縁組を希望したが、うまく話が合わず断ったことからすっかり往来がなくなっていたが、また交流が出来た。人生において敵を作るということが心の負担になっていたので、解決したことは嬉しい。
妹邦子が内職(蟬表製造)を中止。
5月29日
一葉(21)、伊東夏子から借金8円。
伊東(田辺)夏子によれば、一葉を訪問すると鰻をふるまわれ、帰るとすぐに追いかけるように手紙で借金を申しこまれた人もあったという(田辺夏子「一葉の憶ひ出」昭和25)。
6月
坪内逍遙「小羊漫言」(有斐閣)
6月1日
子規、漱石を訪問。
6月2日
大阪商船会社、朝鮮沿岸航路の営業開始。
6月2日
中島歌子の母の没後一周年祭。一葉参加。集まったもの5名で内輪の会合。夜までいて帰宅。伊東夏子から借りた「読売新聞」を12時ころまで読む。
6月4日
漱石、子規宅を訪問
6月4日
一葉(21)、三宅花圃を訪ねる。結婚後の彼女を「ひたすら家事に身を委ねて、世上の事、文事の事、何事も耳に入らずとて、極めて冷やかに成給へり。と批評す
6月6日
寺島宗則(61)、没。
6月8日
夜 子規は突然発病。数日間「瘧(おこり)」に苦しむ。20日以後出社したが、26日にまた瘧を発し、連日悩まされる。
30日、日記に「瘧落」とあって「瘧落ちて足ふみのばす蚊帳かな」の句を書く。ようやく回復した模様。この月は「時事俳評」を掲げた外は、何も『日本』に筆を執っていない。
「瘧」;
数日の間隔を置いて周期的に悪寒、発熱などの症状を繰り返す熱病。その重い症例の多くはマラリアによるものである。戦中までしばしば3日熱マラリアの流行があったが、1950年代には完全に撲滅された。"
6月10日
ケーベル、帝国大学文科大学講師に就任。西洋哲学・古典文学・ドイツ文学を講じる。
6月10日
この日付け日記。桃水からの来るあてもない手紙を待ち焦がれる。
「何故にまつらむとも覚えず。又まちぬべきあてどのあるにあらず。開て嬉しきたよりか、聞かずしてかへりて幸ふかくなるか。何方にも何方にもおもひたどられず。門をはしる郵便脚夫の哀れ我家に寄れかし。かの人のたよりなれかし。一人は空しくすぎぬとも、此つぐなるこそはと、まどによりてしばしば待つ。はかなく過ぬるもにくく、となりに入ぬるもにくし。門札しばしばながめて、あらずとて行過たる、いよいよにきし。」(日記)
「わすれぐさなどつまざらんすみよしのまつかひあらむものならなくに」
(忘れ草をどうして摘まないことがあろうか。(いや、摘んでわすれてしまおう)、住吉の松の(「まつ」ではないが)、「待つ」甲斐あるものでもないのだから)
「もろともにしなばしなんといのるかなあらむかぎりは恋しきものを」
(一緒に死んでしまおうと祈ることだ。生きてる限りは恋しい(想いから逃れられない)のだから)
明治25年6月に桃水との決別を決意して以降、完全な絶交には至らず細々と交流が続いていたが、以前のように自在に会える間柄ではなくなっていた。それから一年経って、一葉の日記の恋歌は「わすれ」「まつかひ」なし、という諦念を見せる。一方、「もろともにしなばしなん」ことまで想定し、「見るもうし見ざるもつらし」という詞書とともに過去の詠歌を一部変えた歌を重出させ、悟りきれない心とともにループに入ったようである。日記中、桃水への恋心を詠む和歌はここで途絶える。
6月12日
山本長五郎(清水次郎長)、没。
6月12日
早朝、星野天知から「文学界」へ載せる原稿の催促の便り。断りの葉書を出す。
6月14日
大石正巳朝鮮公使が帰朝。新橋駅に出迎える人びとの歓迎の声が万雷の鳴り響くようである。
6月19日
子規(10日間ほど病臥していた)、散髪してのち漱石を訪問、豊国楼に行く。
6月21日
ベルリン駐在武官福島安正、乗馬でロシア、シベリア経由して1年4ヶ月かけて帰国。長崎着。
6月21日
この日付の日記。3月から制作にかかった「ひとつの松」も成稿に至らず。
「著作まだならずして此月も一銭入金のめあてなし」(「日記」明26・6・21)。
金港堂(藤本藤蔭)の原稿料支払いは確実だったが、『都の花』は廃刊になりつつある。一葉は、その後どう生計を立てるのか考えねばならない。"
つづく
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