1892(明治25)年
10月
西園寺公望(42)、賞勲局総裁と兼任で民法商法施行取調委員長を命じられ、翌93年4月13日、それを充実させた法典調査会副総裁(総裁は伊藤博文)に就任。
副総裁になって1年3ヶ月ほどかけ、西園寺は94年7月30日迄に、民法は673条を議了し、残り400条ほどを余すのみとする。
10月
アンリ・マチス(23)、エコール・デ・ザール・デコラティフ(装飾美術学校)の夜間講座に通い、A.マルケと知り合う。アカデミー・ジュリアンをやめ、聴講生としてエコール・デ・ボザールのギュスターヴ・モローのアトリエに入る(5年間)。G.ルオーとS.ビュッシーに出会う。
10月1日
泉鏡花『冠弥左衛門』(『京都日出新聞』連載)。処女作。
10月3日
子規、神奈川県大磯の松林館に転地保養に出かける。常盤会が「特別の御憐愍(ごれんびん)」を以て10月分まで給費を出してくれ、叔父大原桓徳がさすがに同情していくぱくかの金を送ってくれた。
給費がとめられた以上、学業をつづけることは不可能になり、子規は「辞表」を出して大学を中退していた。
大磯に出かける朝、子規は上根岸の家の西隣りに住む新聞「日本」の社主、陸羯南を訪れて今後の身のふり方を相談した。羯南は、子規の叔父、加藤桓忠(拓川)と司法省法学校の同窓だった関係から、加膝が欧州に赴任するにあたって子規を托されていた。
10月4日
子規、高浜虚子宛手紙に、帝国大学を退学する件が実現しそうだと伝える。
10月5日
漱石、『文壇に於ける平等主義の代表者「ウォルト、ホイツトマン」 Walt Whitman の詩について』を「哲学雑誌」に発表。
この頃、オーガスタス・ウード「詩狛「テニソン」を邦訳、「哲学雑誌」(12月~26年3月)に掲載。
15日 坪内逍遥、『早稲田文学』(10月15日)で漱石のホイツトマンに関する論文を賞讃し、自分も Dawden を読んだことがあると述べる。
「『ホイットマン』で彼が力説するのはその「平等主義」である。時間的には過去も未来もなく平等であり、空間的には社会に格差を認めない。「人間を視ること平等に山河禽獣を遇すること平等なり」「表面上の尺度」を廃して、「他人の奪ふべからざる身体なり精神」 に従って立つ人こそ「親愛する」に足ると言うのである。「銭なきを恨むな衣食足らざるを嘆くな大敵と見て恐るゝな味方寡(すく)なしとて危ぶむな。智を磨くは学校なり之を試みんとならば大道に出でよ吾れ無形の智者を証する能はざるも智自ら之を証せん」の条(くだ)りは、「「ホイットマン」の処世の方法」と記しながら、漱石がその代弁者として自分の生き方を予見している感がある。
もう一つ注目すべきは、彼がホイットマンの「霊魂説」に同調していることである。彼は晩年には、死の際までその存在を信じようとしていた。彼にとって「死」は肉体の消滅であり、「精神」はその後も語り続けるのである。」(岩波新書『夏目漱石』)
10月5日
子規、仲秋の月見をし、10日の『日本』に「大磯の月見」を発表。
10月6日
この頃、一葉、野尻理作(利作)の依頼により「経つくえ」成稿、10月6日頃、甲府の野尻に原稿を届ける。「甲陽新報」に10月18日~25日、7回にわたり掲載。春日野しか子の筆名。
10月7日
子規、大磯松林館より漱石に手紙。
「拝啓 小生つづまりけり。当地へ滞留、帰京は早くともなほ四、五日を要すべしと存候。明月は如何。十六校は如何。
十六夜は待宵(まつよい)程にはれにけり
相模大磯松林館 子規 拝」
10月9日
子規、伊藤松宇の要請にこたえて「富士百首」を批評する長文の手紙を書く。
10月10日
パリ、ポーランド社会党結成。
10月13日
子規、大磯を出発、箱根・三島・修善寺・軽井沢・熱海・小田原をまわって17日夜帰京。この間の紀行文「旅の旅の旅」を、31日より11月6日まで『日本』に連載。
子規の10月14日付け高浜虚子宛書簡
「拝啓。その後小生なお大磯に滞在候処雨天に倦て、最早帰京と思いつきし折柄、天気晴ければ行脚と出掛、夜は湯元という箱根山麓に一泊。本日箱根の山越致候処、存外の好景色にて途上得る所の俳句六七十首に上り候。吁、小生実にこの快柴を得る者は幸か不幸か貴兄も青桐子も孜々として勉強中なるべし。在京のこと、友とても固より同様也。小生ひとりこの好時簡に孤杖草鞋瓢然として函嶺に向う。何ぞその快なるや蓋不幸か。京洛の山水秀媚、貴兄の四方を囲んで足の行く所詩興を鼓せざるはなし。而して貴兄もとよりまさにその大半をも見ざるべし。箱根の山脈東都より見れば、天辺の寸碧のみ、小生この間に優遊す吁快なる哉。何ぞ知らん、この度東京に帰れば、最早社会の束縛を受けて年中一日も閑を得ざるべし。明年三伏の候。貴兄等故郷に京洛に自在に漫遊するの候。小生は貴兄を見るを得ざるのみならず、終に一日の暇日なかるべし。今度の旅行は死期迫りて御馳走を食うが如し。吁天か人か。」
10月15日
ヘボン(77)夫妻の帰国送別会、横浜尾上町の指路教会。夫妻は22日に横浜を出航。
10月20日
この日付けの一葉の日記。「経つくえ」を掲載した甲陽新聞が送られてきて、安心するとともに、改めて小説で生活することの大変さを思い知る。
「おもへば我ながら恥かしき心也。知識たらず学事とゝのはずとは万も二万も承知なしながら文学中ことに六つかしゝと聞く小説をかきて一家三人の衣食をなさんなど、大たんといはんか、身知らずと言はんか、人知らぬよ半の寝覚に背の汗のいと心ぐるし。さるものから是れに依らずは母君を安心させ奉ることも、家の名をたつることも成らず」(「につ記」明25・10・20)
10月20日
カーネギー製鋼会社ホームステッド工場、鉄鋼労働者5ヵストライキ、強力な弾圧により敗北。
10月21日
一葉、生まれて初めて金港堂(「都の花」編集長藤本藤陰)より「うもれ木」の原稿料11円75銭を受取る(1枚25銭)。母は早速6円を知人の三枝への借金返済に充てる。
10月21日
ハンガリー、フランツ・ヨーゼフ、強硬な協会改革推進派ヴェケルル・シャーンドルに組閣要請。最初で最後のブルジョア出身首相。義務的民事婚、出生・婚姻・死亡の国家届出、ユダヤ教公認、全教派に信仰の自由認める法案提出。
10月22日
石阪昌孝、西多摩郡二宮村での政談演説会に席。終わって懇親会。
10月24日
一葉が「都の花」を紹介してくれた礼を述べるために田邊花圃を訪ねた帰路、桃水が療養している河村家で手伝いをする女性と遭遇し桃水の近況を聞く。
「・・・午後より田辺君を番町に訪ふ。留守にて母君としばし談る。帰路半井君下婢に逢ふ。同氏の近況を聞く。万感万歎、この夜睡(ネム)ることかたし。・・・」
花圃は近く三宅雪嶺と結婚するために多忙であったが、一葉は逢いたいと思い、手紙で打合わせ、11月11日に会うことになる。一葉はその帰路、桃水に会う目録見である。
10月25日
1889年倒産のパナマ運河会社が政界に賄賂を贈っていたことを新聞が暴露。
つづく
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