2024年3月23日土曜日

大杉栄とその時代年表(78) 1892(明治25)年12月1日~28日 漱石「中学改良策」 子規『海の藻屑』『笑話十句』(『日本』俳句時事評) 漱石、東京専門学校講師退職を決意(その後撤回) 一葉、花圃を介して『文学界』への寄稿を依頼される 一葉一家、「朧月夜」原稿料で久々の安らかな年末     

 


大杉栄とその時代年表(77) 1892(明治25)年11月18日~30日 子規、新聞『日本』正式入社 東学党の参礼集会 一葉「うもれ木」(『都の花』) 一葉、中央文壇に登場 千島艦事件 より続く

1892(明治25)年

12月

漱石、長篇論文「中学改良策」脱稿。

12月

尾崎紅葉『三人妻』(春陽堂)上下2冊同時発売。

12月1日

与謝野鉄幹(19)、「鳳雛」(ほうすう)発行。「この誌上に落合直文先生の『萩寺の萩』と云ふ一文、北村透谷の一文等を載せ、寛自身は長短歌を発表す。資力継がずして一号にて廃刊す」。

この年~翌年、「婦女雑誌」に本名・「奇美霊舎主人」・「桜暾(おうとん)山人」の号で歌文・評論を掲載。

12月1日

子規、日本新聞社(社長は陸羯南)に初出社。

月給15円では一家3人の暮しが立ち行かないので、八重と律は松山のときと同様に裁縫をして家計を助けることになる。


「月給は十五円。これはかなりの薄給で、面接の際に陸も子規に、その点を確認したらしい。大原恒徳苑の手紙で子規は、「尤我社の俸給にて不足ならば他の『国会』とか『朝日新聞』とかの社へ世話致し候はば三十円乃至五十円位の月俸は得らるべきに付(つき)その志あらば云々と申候へども、私はまづ幾百円くれても右横の社へははひらぬつもりに御座候」と書いている(柴田宵曲『評伝正岡子規』)。慶応三年生まれの「旋毛曲り」男の面目躍如といった所だが、国文学者の藤川忠治は『正岡子規』で、「子規は単なる新聞記者としてでなく、主義に共鳴した一人として、如何に薄給でも『日本』記者たるを満足としたのである」と述べている。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

12月2日

子規『海の藻屑』(『日本』俳句時事評)


「奔浪怒濤の間に疾風の勢を以て進み行きしいくさ船端なくとつ国の船に衝き当るよと見えしが凩に吹き散らされし木の葉一つ渦まく波に隠れて跡無し。軍艦の費多しとも金に数ふべし。数十人の寅重なる生命如何。数十人の生命猶忍ぶべし。彼等が其屍と共に魚腹に葬り去りし愛国心の価間はまほし。

ものゝふの河豚に喰はるゝ哀しさよ」

「・・・・・非常に短いコラムだが、散文と俳句との組み合わせによって、きわめて多義的な意味作用が、同時代の新聞読者の意識との対話の中で紡ぎ出されていくことになる。この散文の前提は、一二月一日に多くの新聞で大きく報道された「千島艦沈没事件」である。「俳句」と「評」が新聞の見出しのようになって、読者は自分の記憶の中から新聞の記事を取り出して、読み直す(記事の記憶を辿り直す)ことにもなるのだ。

事件の第一報は一一月三一日の午後一時過ぎ海軍省に入った。一一月二八日午後一時頃、長崎から神戸港に向かった、フランスから横浜まで回航中の帝国海軍水雷砲艦千島七百トンが、愛媛県の輿居島付近で、三〇日の明け方午前五時頃に、二九日に神戸港を出港したイギリスの汽船ラヴェンナ三千トンと衝突したのである。九十名の乗組員のうち救助されたのはわずかに十六名。ただちに門司港から軍艦筑波、神戸港から葛城と武蔵が救助に向かったが、残り七十四名の安否はわからない、というのが一二月一日の段階での報道であった。

この事件に対する子規の「評」の力点は、「吹き散らされし木の葉一つ」という表現で千島艦の小ささに置かれ、「軍艦」にかかった「費」用や「生命」を落とした「数十人」も数で確認出来るが、「魚腹に葬り去」られた乗組員たちの「愛国心」の「価」は、数値化して測ることが出来ないと述べている。

一二月一日の『時事新報』の記事では、千島艦の「海軍士官」たちが優秀な「航海術に長じたる」者たちであったことが強調されていた。この指摘により衝突事故の責任は、むしろラヴェンナ側にあったのではないかということが、新聞の読者には喚起される。こうして子規の「評」が、日本の海軍の中で最も優秀な「航海術」を身につけ、七十二万円あまりの国家予算によって建造された大切な軍艦を、無事フランスから横浜まで回航させようとしだ「海軍士官」たちに焦点を合わせていることが明確になるのである。そしてこの「評」と「ものゝふの河豚に喰はるゝ哀しさよ」という俳句が呼応することにもなる。

「評」の中の「魚腹に葬り」は、『楚辞』を典拠とする「水死」の慣用句であるが、「俳句」の中の「河豚に喰はるゝ」という表現によって、季語「河豚」が冬を明示しっつ、「河豚」の読み「フグ」から、「不魔」を掛け詞(ことば)的に連想させ、まったく思いがけない出来事や不慮の事件という意味を重ねていく。

読者に共有されている新聞の報道記事を「時事」の参照前提とし、「評」と「俳句」との相互関係の中で情報を組み合わせ、複数の意味作用を生成する言葉の仕掛けを創り出すことによって、子規は日本の「短篇韻文」の「叙情」と「叙景」にとどまる限界を突破し、「短篇韻文」による「叙事」の可能性を確実に切り拓いていったのである。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))


12月7日

桃水から一葉へ手紙。「朝日新聞」連載の「胡砂吹く風」を本にするので匿名でもいいから和歌を寄せてほしいという。一葉はその題詠を、とりに来た弟の浩に渡す。

「・・・直にかへししたためて、歌は一首よからねども、林正元(主人公)をよめるの成けり。かかる折ふしの音づれいと嬉し。・・・」

12月20日に、桃水の弟浩(父方の姓をついで龍田)が、色紙を求めにやって来る。母が菓子を包んで、兄君への土産にと渡すのを、一葉は「龍田君よりは我がよろこばしさ、上もなかりき」と記す。

12月10日

幸徳秋水(21)、国民英学会卒業

12月12日

神奈川県会、選挙干渉の責任追及始まる。知事と警部長の罷免決議案を可決。16日、県会解散。翌明治26年3月10日、知事辞任。

12月14日

漱石、子規から、東京専門学校での彼の授業が生徒たちに不評だという手紙を受け取る。


「子規がどこからその情報を仕入れたのかは良くわからない。しかし、裏表のない子規は、そのことを正直に漱石に伝えようとしたのだろう。ショックを受けた漱石は、坪内逍遥に宛て辞職願の手紙を認める。結局、この手紙は未投函に終わったけれど、この時から彼は自分が教師に不向きな人間であると感じはじめていた。(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))


夜、漱石、子規宛手紙に、「學校の委托を受けながら生徒を満足せしめ能はずと有ては貢任の上又良心の上より云ふも心よからずと存候間此際断然と出講を断はる決心に御座候」と書き、俳句1句を添える。

12月16日

内務大臣、三多摩移管法案を閣議に提出。

翌明治26年1月18日、枢密院、法案の一部修正の上で可決。2月18日、「東京府及神奈川県境域変更に関する法律案」が第4議会に提出。議会の会期は28日迄で、会期末をねらっての突如の法案提出。

12月17日

漱石、子規宅を訪問。東京専門学校講師退職の決意を伝える。しかし、結局は辞職願の発送を中止したと推測される。

12月19日

この日付けの子規『笑話十句』(『日本』俳句時事評)。


「・・・・・一から十まで番号をふって、簡潔な「評」によって「時事」的事件を想起させ、それに「俳句」を付すという表現形式である。その八番目は次のようになっている。


  八、イトウの当り年なり

          をなじ名のあるじ手代や夷子講


・・・・・「イトウ」は北海道や樺太に生息するサケ科の魚「伊当(伊富)」を指すことになるが、「俳句」の方に「をなじ名」とあるので「伊藤」ないしは「伊東」という日本人の姓を連想することも出来る。

「夷子講」は、秋の季語。旧暦の一〇月二〇日に、商家で商売繁盛を祈る恵比須神の祭のことを指し、新暦では一一月下旬にあたる。ここに思い至ると読者は、第四回帝国議会直前の一一月二七日に起こった一つの事件を想起する。内閣総理大臣伊藤博文の人力車が、「小松若宮妃殿下の召され」た「馬車」に「衝突」しそうになった事件である。伊藤は頭部を強打し負傷、第四回帝国議会の途中まで内務大臣の井上馨が総理大臣臨時代理を務めるという、異例の事態となったのだ。

この場合「当り年」の「当り」を、「人力車」が「馬車」に衝突しそうになったという「アタリ」に掛けているわけだが、「当り年」という言葉は、よいことがあった年に用いるのであるとすれば、また別の「時事」を読者は想起出来る。事件の三ケ月前、辞職した松方正義に代って、八月八日第二次伊藤内閣が成立したことは、負傷した伊藤博文にとってはよいことであった。その際、総理大臣と別字で「をなじ名」の、枢密院書記官長であった伊東巳代治が、内閣書記官長を務めることになったのである。

伊藤博文と伊東巳代治の二人の「イトウ」が想起されれば、「をなじ名のあるじ手代」の謎は解けるので、読者はようやく解釈の運動を止めることが出来る。九文字の「評」と、十七文字の「俳句」で、その十倍くらいの字数を用いないと記述出来ない「時事」を想起させることが可能になっている。読者が新聞記事で読んだ「時事」をめぐる記憶を刺激し、連続的な言葉の転義によって、「短篇韻文」による「叙事」を可能にする、新聞という新しいメディアの特性と密着した俳句ジャーナリズムを、子規は開発したのである。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))

12月19日

チャイコフスキー、バレエ音楽「くるみ割り人形(作品71)」初演、ペテルブルグ、マリンスキー劇場。予想外の不評。

12月24日

この日付の一葉の日記(「よもぎふにつ記」)。

年越しの不如意、不安を嘆く。

「かけじとおもヘど実に貧は諸道の妨成けりな。すでに今年も師走の廿四日に成ぬ。こんとしのもうけ身のほどほどにはいそがるゝを此月の始三枝君よりかりたるかねの今ははや残り少なにて奥田の利金を弘はゞ誠に手払ひに成ぬべし。餅は何としてつくべき、家賃は何とせん、歳暮の進物は何とせん。暁月夜の原稿料もいまだ手に入らず外に一銭入金の当もなきを、今日は稽古納めとて小石河に福引の催しいと心ぐるし」

また、「文学界」からの原稿依頼について、

「家にては斯く雑誌社などより頼まるゝ様になりしは、もはや一事業の基かたまりしにおなじとて喜こばる。此ごろの早稲田文学に文学と糊口といふ一欄ありしを思ひ出れば面てあからむ業也」(「よもぎふにつ記」明25・12・24)

12月24日

(又は26日)「うもれ木」に注目した星野天知は、12月23日発行『女学生』第30号に評を書く一方、三宅(旧姓田邊)花圃を介して『文学界』に寄稿を依頼。この日、花圃は一葉に寄稿を依頼。翌年1月20日に「雪の日」が完成し、この日花圃に郵送。3月の「文學界」第3号に掲載される。

この作品は、明治25年2月4日の雪の日に半井桃水を訪ねたときの体験が基になっていると考えられる。

12月28日

一葉、金港堂より「暁月夜」の原稿料11円40銭受取る。餅、酒、醤油の支払いをし、師匠の歌子に歳暮を届け、萩の舎の帰途、小石川柳町の稲葉鉱にもいささかの金を届ける。久しぶりの心安らかな年末

「いとのどかなる大晦日にて、母君家を持ちし以来この暮ほど楽に心を持しことなしとていたく喜こばる」(12・31)

稲葉鉱は、かつて母たきが上京後、乳母として奉公した旗本稲葉家の姫君で、一葉とは乳姉妹。維新後、落ちぶれて、人力車夫となった夫と子供とで6畳1間の長屋に、夜具も家具もない生活となる。一葉の日記には、この家の赤貧洗うが如しの暮らしのさまが描かれている。

「昔しは三千石の姫と呼ばれて、白き肌に綾羅を断たざりし人の、髪は唯かれのの薄(ススキ)の様にて、いつ取あげけん油気もあらず。袖無しの羽織見すぼらしげに着て、流石に我れを恥ぢればにや、うつむき勝に、さても見苦しき住居にて茶を参らせんも中々に無礼なれば、とて打詫るぞことに涙の種也。畳は六畳計にて切もきれたり。唯わらごみの様なるに、障子は一処として紙の続きたる処もなく、見し昔しの形見と残るものは卯の毛におく露ほどもなし。夜具蒲団もなかるべし。手道具もなかるべし。浅ましき形の火桶に土瓶かけて、小鍋だての面かげ何処にかある。あるじは是れより仕事に出る処とて、筒袖の法被肌寒げにあんかを抱きて、夜食の膳に向ひ居るもはかなし。正朔君の我が土産を喜こびて、紅葉の様なる手に持しまま少時も放たず。・・・」

12月28日

一葉、桃水の葉茶屋の店先に苦い女を見出し、彼の妻と思いこむ。


つづく



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