瀬戸内寂聴『炎凍る 樋口一葉の恋』が描く一葉と桃水の別れとそれが意味するもの(Ⅰ)
■一葉と桃水の恋愛関係は人々の噂になりつつあった
「美男で女好きのする桃水と、まだ二十になるやならずの聡明な女弟子の仲は、世間の好奇の目をそそるに充分だった。・・・桃水のほうでも一葉のことを、とかく口にのぼらせたがったようである。野々宮きく子に、養子にゆきたいなど冗談めいて口にするのも、そのひとつであった。
桃水が弟子の小田久太郎と鎌倉に滞在した時、斎藤緑雨が、同伴者を一葉とまちがえて、御同行の一葉女史によろしくと冷やかしてきたりしている。それだけ、文壇ではすでに噂があったという証拠であろう。
一葉はまた一葉で、萩の舎で自分ではそれと意識せず、相当桃水のことを口にしていたようである。・・・。
花圃の想い出話によると一葉は花圃に、「病気があるからって、ぴったり断られてよ」などときわどいことを言ったという。下宿へいったら寝ていたので、蒲団をかけてやったなどとも話したようだ。これは一葉が言わないかぎり想像できない情景で、一葉は雪の日の感動を、こんな形で口にせずにはいられなかったのだろう。よく一葉が桃水のことを話しているので、
「夏ちゃん、また桃水の噂かい」
とからかうと、
「悪くも噂がしてみたい。トントン」
などと言ったという。そんな蓮(はす)っ葉(ぱ)な一葉は、想像もできないが、花圃が全く作り話をする人とも思えない。桃水との仲を一葉が凄い都々逸につくっていたという噂も、萩の舎には流れていた。
伊東夏子はクリスチャンだったし、新聞記者という職業を軽蔑していて、新聞屋は悪(わる)だという当時の世間の通念をそのままのみこんでいたので、一葉と桃水の噂がたまらなく不潔に思われた。一葉は萩の舎で自分と桃水のことが評判になり、下女たちまでがすっかりそれを承知していることに、全く気づいていなかった。」
*三宅花圃は、一葉没後、一葉対するやや辛口の回想を残している。
「桃水の計画した雑誌『武蔵野』は発刊がおくれだが、その間に一葉の片恋の小説『闇桜』は同人の間でも好評で、小宮山は『武蔵野』は一葉のための雑誌になりそうだなどと評した。
当然、一葉はその好評を知っていた。にもかかわらず、一葉はこの頃、桃水に向かって、
「もし私に作家になる素質がないのなら、本当のことを言って下さい。私は愚直で、人のことばをそのまま信じ易いので、先生が口さきだけでほめて下さっても、本気にして先生にすがってしまいます。心にもないことでしたら、私のようなものに頼りにされて、さぞ先生のほうが御迷惑なさいましょう」
と言っている。これは小説にかこつけて、桃水の自分への真意を探ろうとした一葉の、見えすいた甘えの質問だと思う。桃水のほうは、本気になって、むきに答えている。
「私も男だ。いったん引き受けたことに嘘などない。月々に案じ、日々に考えて、あなたの幸福ばかり願っている。自分はあくまであなたと相携えて、共にやり抜こうと思っているのに、あなたはなぜ、そんなに疑うのだろう。あなたの作品が『武蔵野』に三回ものれば、必ず世に名を知られるにちがいない。そうすれば『朝日新聞』でも何でも紹介できるのです」
この答もまた、小説はつけたりで、女の疑惑に、いつまでも見捨てるものかと男らしく答えているようにもとれる。
「我れはあくまで相携へて始終せんと思ふを、君はなどさ計(ばかり)にうだがひ給ふ」ということばは、恋の誓いとしか聞えない。」
■借金申し込みに見える一葉日記の小説的創作要素
「『武蔵野』が必ず出るから、その後は一葉に毎月原稿料の定収入が入るという予定をあてにして、多喜(*一葉の母)は則義(*一葉の父)の代から親しくして金銭の融通をしあってきた森昭次に借金をしていた。証書をいれて、月々八円を向こう半年借りることにして、第一回分は二月十八日に受けとって、急場をしのいでいた。
ところが、『武蔵野』が一向に予定通りに出ないので、森は三月分以後を断ってきた。三月二十三日のことであった。
一葉は万策尽きて、翌三月二十四日に桃水を訪ね、借金を申し込んでいる。日記では、この二日前、二十一日に、一葉が桃水に自分に文学的才能がないなら、本当のことを言ってくれと迫った時、桃水は必ず一葉を世に出すと誓い、
「家事の経済などに付て憂ひたまふとあらば、そはともかうも我(われ)すべし」
と、力強く受け合っている。その背景があっての二日後なので一葉の借金の申し込みは不自然ではない。
一葉が、言いにくいのを厚顔だと恥じながら申し入れると、桃水は即座に、
「承知しました、何とかしましょう。ご安心なさい。ただし、今月は弟たちに洋服など新調してやったので、少し懐が淋しいのです。それでも月末までには調達しましょう」
と、「白湯(さゆ)のみ給ふやう」にあっさり引き受けてくれた。一葉は、「かたじけなきまゝ又涙たぼれぬ」と書いている。
しかし、桃水が一葉の金を用だてでいるのは、前述したように、この時が初めてではない。いかにも初めての恩借申し込みのような日記の文面は、明らかに文学的に創作しているといえよう。
これを見ても一葉の日記が、事実をありのままに書いたのではなく、現実の出来事や心理的経験を取捨選択して、小説的に創ったものだということが察せられる。」
■一葉に対する桃水の経済的支援
「ただし『改進新聞』に連載された小説についても、『闇桜』についても、一葉は日記ではいっさい触れていない。どちらも、あれほど待ち望んでいた原稿料を一葉にもたらしたはずなのに、そのことについてもない。金銭のことをいっさい日記から省くつもりなのか、この部分は破棄ではなく省筆である。
塩田氏の『樋口一葉研究』によれば、桃水の再婚の未亡人大浦若枝の証言として、桃水が小田久太郎を通じて月十五円を与えていたと、桃水側では信じられていたという。また桃水の一葉宛の手紙も残っていて、それによれば一葉が幾度か、金の無心をしており、桃水は二度は断っているが、幾度かは応じていることが察せられる。しかもその最後は、明治二十七年九月十九日の日付になっていて、金銭的な関係は、ほとんど死の前頃まで続いていたのではないかと思われる。」
「五月二十七日付の桃水の手紙が残っていて、一葉が隠した事実が明らかになっている。
「毎度御親切に御見舞被成下、難有奉存候、扨(さて)、本月は病気にで、思ふ事万づ思ふまゝならず、回天の方四十円程受取り、夫にてすべての取り賄ひ可仕存居候処へ、回天休刊と相成候。畑島をもって充分催促為仕、少しにても取出候へば、諸事は打置き、おん許(もと)へさしまはす心組ながら、屹度(きつと)と申す処無覚束(おぼつかなく)、手前にても何とか覚悟可致候間、おん許(もと)様(さま)にでも災難と思召し、万一の時のお備へ予(あらか)じめ願置度候。まづは用事まで申す上候。
頓首
五月二十七日 半井 冽
樋口様 」
というものだった。
『回天』は、京橋の回天社から出ていた雑誌で、『回天新聞』というのも発行された。桃水の原稿はそのどちらから出たかわからない。とにかく当てにしたその原稿料が入らないので、一葉にも回せないから、そちらで工面してくれという手紙である。これを見ても、一葉一家の月々の生活は、桃水の家計の中に組み入れられているような感じがする。」
つづく
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