2024年3月30日土曜日

大杉栄とその時代年表(85) 1893(明治26)年6月22日~7月 一葉(21)、糊口的文学に見切りをつけ、就業を決意 「是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤(そろばん)の玉の汗に商(あきな)ひといふ事はじめばや。」(「につ記」)

 


大杉栄とその時代年表(84) 1893(明治26)年5月23日~6月21日 徳富蘇峰の条約励行論 子規の瘧(おこり)発病 来るあてもない桃水からの手紙を待つ一葉 「著作まだならずして此月も一銭入金のめあてなし」(一葉) よりつづく

1893(明治26)年

6月22日

一葉(21)、萩の舎の中島歌子を訪れて借金の申し入れをしようとするが、婉曲に断られる。歌子に対して失望し、心の決着を付ける。

歌子が門人の批判をするのを聞き流し、金の話をすると、歌子は財政困難について話す。「口に山海のちん味をあぢはひ身に綾羅(あやら)をかざり給ふともたゞいさゝかなる御身一つなるを」と一葉は批評する。歌子は、兄のために苦労をさせられていること語り、一葉の金の無心に対し婉曲に断るような態度を示す。

「何ぞや事を兄君に帰して自家不徳の貲(し)にし給ふらむ、きくまゝに心地わろしとおもふ」(6・22)と一葉は記す。

6月24日

(露暦6/12)チャイコフスキー、ケンブリッジ名誉博士号授与。

6月27日

「報知新聞」(改進党系)、豆満江口、元山、釜山、仁川の防衛は日本海軍の任務であると主張、そのため「二、三要害の地を買受けもしくは譲りうけ」ることを提唱(~29日)。

6月27日

「廿七日、晴れ。金策におもむく。」(一葉の日記)

6月27日

ウォール街の株価突然暴落。4年間にわたる経済恐慌始まる。労働者の2割近く失業。ストライキ頻発。

6月29日

単騎シベリア大陸横断に成功した福島安正陸軍中佐、東京に帰着。そのまま帰京歓迎会会。

6月29日

福島中佐帰京歓迎の催しを母たきに見せるため、正午から上野の歓迎会場に行く。3時ころ帰宅。

あちこち金策に歩き、伊東夏子のところから日暮後帰宅。

金策尽き、夜、家族会議の結果、士族の誇りを捨て、実業に就く一大決定をする。母は商人になることを悲しみ責めるが、家財を売ったり商売をしたからといって心がかわってしまうわけではないので、自分の良いと思って進むところへ進むだけであると考える。


「廿九日、晴れ薄曇なり。我れは直ちに一昨日頼みたる金の成否いかがを聞きに行く。出来がたし・・・。

此夜一同熟議 実業につかん事に決す。かねてよりおもはざりし事にもあらず。いはヾ思ふ処なれでも母君などのたヾ欺きになげきて、汝が志よわく立てたる心なきからかく、成行ぬる事とせめ給ふ。家財をうりたりとて実業につきたりとて、これに依りて我が心のうつろひぬるものならねど、老たる人などはたゞものゝ表のみを見て、やがてよしあしを定め給ふめり」」(この日付「日記」)


かつて父則義が経営資金を貸し与えていたよしみから、京橋の中橋広小路で荒物屋を営む石井利兵衛(屋号伊勢利)の助けを得て最初は荒物の店を持つことにした。開業資金は家財の売却と西村釧之助に融資を依頼して調達した。

西村釧之助:

慶応2年(1866)11月旗本稲葉専之助の家来森良之進と妻ふさの長男として誕生。維新後、森良之進と家族はしばらく樋口家に世話になるが、稲葉家の領地茨城県真壁郡東宮後村に帰農し、名主の名を名乗り西村と改名、自ら信夫と改め、長男仙之助も釧之助と改名。明治14年(1881)、小永井八郎の濠西精舎に入塾し漢学を学び、明治24年10月から小石川区代町6番地(富坂警察署向い)で洋品・文房具を置く店を開く。釧之助はその後店を妹くにに譲り、くには西村の店に出入りしていた吉江政次を夫に迎え、長い間文房具兼洋品店「礫川堂」を経営した。

6月30日

足尾銅山、粉鉱採集器を設置。3年間をその試験期間とする。

6月30日

早朝、母たきが鍛冶町の遠銀(石井銀次郎)のところへ古い貸し付けの回収にゆく。芦沢芳太郎の預り金と合わせて2円40銭になる。これを転宅資金にする。


7月

一葉、7月1日から始まる日記(「につ記」、表紙年月「明治廿六年七月」。署名「なつ子」)の冒頭。一葉は糊口的文学に見切りをつけ、就業の決意を述べる。文学を生業とするのをやめて、生活のための商売を始め、文学は自由に筆の赴くままに書こうと決意する。


「人つねの産なければ常のこゝろなし。手をふところにして月花(つきはな)にあくがれぬとも、塩噌(えんそ)なくして天寿を終(をへ)らるべきものならず。かつや文学は糊口の為になすべき物ならず。おもひの馳するまゝ、こゝろの趣くまゝにこそ筆は取らめ。いでや、是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤(そろばん)の玉の汗に商(あきな)ひといふ事はじめばや。もとより桜かざしてあそびたる大宮人(おほみやびと)のまどゐなどは、昨日(きのふ)のはるの夢とわすれて、志賀(しが)の都のふりにし事を言はず、さゞなみならぬ波銭小銭(なみせんこぜに)、厘(りん)が毛(もう)なる利をもとめんとす。さればとて三井、三びしが豪奢(おごり)も顧はず、さして浮よにすねものゝ名を取らんとにも非らず。母子草のはゝと子と三人(みたり)の口をぬらせば事なし。ひまあらば月もみん、花もみん、興(きよう)来らば歌もよまん、文もつくらむ、小説もあらはさん。」

* 「孟子」梁恵王に「無恒産者、無恒心」とあるのを引用

*「早稲田文学」掲載に¥の「文学と糊口と」(奥泰資)。

* 「ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざして今日も暮しつ」(新古今・山部赤人)。

「大宮人のまどゐ」は萩の舎の生活。

* 「さざなみやしがの都はあれにしを昔ながらのやま桜かな」(千載・平忠度)。

(きちんとした職業と収入のない者には、安定した正しい心はないという。何もしないで月よ花よと風流な生活に憧れても、食べるものがなくては生きて行くことも出来ない。また文学は生活のためにするものではない。思想や感情が広がりおもむくままに、生活のことなど考えずに、自由に筆を執って書くべきものです。

収入を得るための文学という私のこれまでの考え方は、この際きっぱりと捨ててしまおう。そしてこの世を生きて行くために、そろばんを持ち汗を流して商売というものを始めようと思う。勿論桜をかざして遊ぶ大宮人のような風流な集いのことは昨日の夢と忘れ果てて、過去のことは言わず、志賀の都のきざ波ではないが波銭小銭のような僅かな利益を求めて努力しょう。利益を求めるといっても三井三菱のような大富豪を願うのでもない。また浮世にすねたひねくれ者になろうとも思わない。母子草の母と子の三人の生活が出来ればそれで十分。そして暇ができたら月も見よう花も見よう、興が湧いたら歌も詠もう文章も書こう、また小説も作ろう。)

「唯、読者(よみて)の好みにしたがひて、「此度(このたび)は心中ものを作り給はれ、歌よむ人の優美なるがよし、涙に過(すぎ)たるは人よろこはず、繊巧(せんかう)なるは今はやらず、幽玄なるは世にわからず、歴史のあるものがよし、政治の肩書(かたがき)あるがよし、探てい小説すこぶるよし、此中(このうち)にて」などゝ、欲気(よくげ)なき本屋の作者にせまるよし。身にまだ覚え少なけれど、うるさゝはこれにとゞめをさすべし。さる範囲の外(そと)にのがれて、せめては文字の上にだけも義務少なき身とならばやとてなむ」

(「読者の好みに応じて今回は心中物をを書いて下さい。あるいは歌人の優美な生活を書いたのもよい。お涙頂戴の小説は読者に喜ばれないし、繊細に過ぎるのは今ははやらないし、幽玄なものはむずかしくてわからない。歴史小説がよいし、政治小説もよい。探偵小説は特によい。これらの中から適当に選んで」

などと、はっきりした考えもない本屋が作者に要求するというが、私などはまだそれほどの経験はないが、こんなうるささからも開放されることだろう。そういう世界の外に脱れ出て、せめては文字の上だけでも義務のない自由の身になりたいと思って決心した次第です。)


「されども生れ出(いで)て二十年あまり、向ふ三軒両どなりのつき合いにならはず、湯量に小桶(こおけ)の御あいさつも大方はしらず顔してすましける身の、お暑うお寒う、負けひけのかけ引(ひき)、問屋のかひ出し、かひ手の気うけ、おもへばむづかしき物也けり。ましてやもとでは糸(いと)しんのいと細(ほそ)くなるから、なんとならしばしゐの葉のこまつた事也。されどうき世はたなのだるま様、ねるもおきるも我が手にはあらず。「造化(ざうくわ)の伯父様(おぢさま)どうなとし給へ」とて、

       とにかくにこえてをみまし空(うつ)せみの

            よわたる橋や夢のうきはし」

*一葉の歌には、とにかく運を天にまかせてやってみようという決意が見えるが、一方で現実の生々しい商売とはかけ離れた不定な儚さも感じ取れる。

(しかし生まれてから二十年余り、向こう三軒両隣の近所の付き合いにも慣れず、銭湯での小桶越しの挨拶も知らぬ顔ですましてきた私が、急にお暑うお寒うの季節挨拶から、やれ負けろやれ値引きせよの騒け引き、また問屋の買出し、客への気兼ね、思えば本当にむずかしいことばかり。まして資本金は糸の芯のように細く、なんとなるやら、まことに困った事ではある。しかし人生は棚の上の達磨のようなもの、寝るも起きるも自分ではどうにもならない。造化の神よ、どうなりとして下さいと観念して、

   とにかくに越えてをみまし空蝉の世渡る橋や夢の浮橋)


つづく


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