2024年3月6日水曜日

大杉栄とその時代年表(61) 1892(明治25)年2月1日~2月4日 子母沢寛生まれる 出口ナオ(57)大本教開教 一葉、桃水より同人誌『武蔵野』発刊の計画を聞かされる 「種々の感情むねにせまりて、雪の日といふ小説一篇あまばやの腹稿なる」  

 

同人誌『武蔵野』

大杉栄とその時代年表(60) 1892(明治25)年1月~2月 南方熊楠、西インド諸島巡回からフロリダ州ジャクソンビルに戻る 伊藤博文、新党結成に動く 堀口大学・西条八十生まれる 子規、小説「月の都」脱稿 一葉(20)結核発現の最初の兆候 植木枝盛(35)没 足尾の鉱毒被害者示談工作進む 幸田露伴と根岸派の人々 より続く

1892(明治25)年

2月1日

三田の松方邸で元勲会議。伊藤・井上・山県・黒田・松方の5元勲と品川。会議は3日に及ぶが伊藤は2日以降欠席。

2月1日

子母沢寛、誕生。

2月3日

出口ナオ(57)、京都・綾部で大本教を開教。

2月3日

一葉(20)、「闇櫻」の原稿について指導を受けるため、翌日桃水を訪問したい旨を葉書を出すが、行き違いに桃水からも葉書が来て、翌日来るようにとある。この時のことについて、一葉は3日の日記に、「こはおのれが出したるに先立てさし出し給へるなるべし。かく迄も心合ふことのあやしさよと一笑す。」と記す。一葉が桃水にひかれていく心の様子が分かる。

翌4日、雪の降る中を一葉は平河町へと出かけた。そして同人誌『武蔵野』発刊の計画を聞かされる。この雪の日の1日が一葉にとって桃水についての最も忘れがたい日となる。この日、一葉は半日ほど桃水が仕事のために借りている家で彼と二人きりですごし、彼を男として強く意識したようである。桃水から泊っていったらとすすめられる。それをふりきって帰る途中、「種々の感情むねにせまりて、雪の日といふ小説一篇あまばやの腹稿なる」と日記に記す。

桃水は大阪の『なにはがた』に対抗して東京の『朝日』系の人々を集めて小説雑誌を計画、誌名を『武蔵野』と名付けた。『なにはがた』の紅一点、山田淳子に対応する存在として、一葉の作品を誌上で強調させる構想を持っていた。

〈「雪の日」の恋〉

その日(2月4日)は、「早朝より空もやう」の悪い日であり、「雪なるべし」と母も妹も言ったが、「よし雪になればなれ、なじかはいとふべきとて」家を出る。12時過ぎ、桃水宅へ着くが留守らしく答える人ももない。そこで一葉は2時近くまで待つことになる。

玄関の上り框に腰をかけて待つが、雪が格子のすき間から入ってきて、寒いので障子をあけて、2畳ほどの玄関の間に上る。襖に耳を寄せるとかすかに鼾が聞こえる。1時になり、寒さに耐えられなくなった夏子が咳払いをしたところ、桃水は蒲団からはね起き襖をあけ、大あわてに寝巻の上に羽織を着ながら、前夜は歌舞伎へ行って遅く帰ってから連載中の小説を書いて床についたと詫びる。

大急ぎで水をくみ、洗面し、火をおこす桃水の動きを、日記はいきいきと描き、そのやもめ暮らしを観察している。

桃水は同人雑誌「武蔵野」発行のことを語り、夏子にも15日までに短編を書くように言う。1、2回は原稿料は出ないが、世間に認められて収入になればまず夏子に稿料を支払うつもりだと、熱心に語る。桃水は手作りのしるこをごちそうし、雪降りでもあり、自分は他所へ行くので、泊っていってはとすすめる。ことわって桃水の許を去るのは午後4時頃。

「半井うしがもとを出しは四時頃成けん。白がいがいたる雪中、りんりんたる寒気ををかして帰る。中々におもしろし。ほり端通り、九段の辺、吹かくる雪におもてもむけがたくて、頭巾の上に肩かけすっぽりとかぶりて、折ふし目斗(バカリ)さし出すもをかし。種々の感情胸にせまりて、雪の日といふ小説一編あまばやの腹稿なる。」と、

その日の日記には書き留める。

この雪の日の思い

「こゝら思ふことをみながら捨てゝ、有無の境をはなれんと思ふ身に、猶しのびがたきは此雪のけしき也。」(『よもぎふ日記』明治26年1月29日)

「ひる頃より雪ふり出づ。万感こゝに生じて、散乱の心ことに静めがたし。我雪の日をめづるは、めづるにはあらでかなしむ也けり。」(「よもぎふ日記」明治26年2月27日)

と、幾度も記されることになる。

一葉の桃水への恋における相剋する二方向

「切なる恋の尊きこと神のごとし」(「日記」明治28年8月)

「恋とは我心に咲出し花の、おのづからうるはしくたのしく清らけさもの」 (同上)

と書き、一方で、

「恋はあさましきものなれ。」(同、明治26年2月)

とも書いている。

一葉の心は、

「恋は尊くあさましく無ざんなるものなり。」(同、明治26年5月)、

「あやしき我心は二つあるか。かたへより見れば浅ましくもをかしく、かヘリてはおろかに、いやしくさへおぼゆるを、今一方にては、よし此身あればこそ、かゝる物思ひもするなれ。」(同、26年5月)

という激しい相剋となる。

そして、桃水との出会いと離別の中で

「まこと入立ぬる恋の奥に何ものかあるべき。もしありといはゞ、みぐるしく、にくゝ、うく、つらく、浅ましく、かなしく、さびしく、恨めしく、取あつめていはんには、厭はしきものよりほかあらんとも覚えず。あはれ其厭ふ恋こそ恋の奥成けれ。」(「につ記」明治26年7月5日)

と、恋の奥儀というべきところに到達する。


以前にも引用した瀬戸内寂聴『炎凍る 樋口一葉の恋』では、もう少し踏み込んだ女と男の関係としての一葉と桃水の間を分析している。


「この日の日記を、一葉は次のように結んでいる。

「白百がいがいたる雪中、りんりんたる寒気ををかして帰る。中々におもしろし。ほり端(ばた)通り、九段の辺、吹(ふき)かくる雪におもてもむけがたくて、頭巾(づきん)の上に肩かけすつぽりとかぶりで、折ふし目計(ばかり)さし出すもをかし。種々(さまざま)の感情むねにせまりて、雪の日といふ小説一筋あまばやの腹稿(ふくかう)なる。家に帰りしは五時。母君、妹女とのものがたりは多ければかゝず」 

これはもう、文学の師と女弟子というより、全く恋する男女の逢引の情況である。はたして、ここに書かれただけのことであったか、筆にしない何かがあったかは神のみぞ知ることである。白がいがいたる雪の濠端を、幸福と興奮と恋の酔心地に上気した頬を、すっぽりと頭巾でつつんで車にゆられる一葉の胸中は、女に生れた歓びに満たされていたことだろう。

塩田良平氏は、この隠れ家には弟の茂夫も一緒に住んでいたので、ふたりきりでいたのではないといわれているが、もしこの場に茂夫がいたら、一葉は何時間も台所に座っているはずはないだろう。車は茂太が呼びに行ったが、夕方まで帰らない女客に夕飯を出すのかと、小田の妻君が様子を見に来させたとも考えられる。

もし、茂太がいたとしても、兄と女弟子の間に、野暮な役割で坐っているだろうか。一葉の日記には、他の人間の気配すら感じられない。むしろ、先日の狂的にこの家に押し入った一葉の激情を思えば、一葉は桃水の寝ている部屋に入って、待っていたと考えるほうが、自然な気がする。

ここで言ってる「先日の狂的にこの家に押し入った一葉」というのは、前の月(正月)8日の一葉の年始廻りの際、あいにく留守をしていた桃水の部屋に入り込んだことを指す。

この日の記述も寂聴流で面白い。


「車を拾い帰る道すがら、一葉は悲しく物想いに沈みこんでゆく。自分は昔は、こんな厚かましいことはとてもできる娘ではなかったのに、何というはしたない厚顔なことをしてしまったのだろう。もし、こんなことを人が聞いたら、何と言われるだろう。妙な浮名が立っても言いわけもできない。

一葉はその晩、日頃の疲れや、年始回りの疲れに加えて、桃水に明らかに避けられたという屈辱と悲哀で心が傷つき、じっとしていられない。外の人にはそうでも、自分までもという気持が、一葉の心を猛々しくさせる。

この日の一葉の行動は、自身反省するまでもなく、異常にエキセントリックである。桃水に避けられているという疑いの中には、自分以外の女といるのではないかという嫉妬がうずまいている。一言もそれは筆にしていないが、この狂気じみた行動の中に、一葉の嫉妬が毒を吹いている。たとい桃水が自分の都合で客を避けたとしても、または誰かと引きこもっていたとしても、単なる女弟子の一葉が、ここまで逆上することは不当なことだ。まるで恋人に裏切られたような一葉の逆上ぶりはどうしたことか。

しかもその夜、どうしても桃水に一筆書いて、この恨みを述べなければ気特がおさまらないと、一葉は手紙を書き出した。書いていでもうわの空で、ようやっと書きあげ、読みかえすと、それは激情がぶちまけてあって、「末におそれの種やまかんとおそろしくさへ」なって、状袋にいれたままで、出しにもいかずに捨てておいた。」

結局、この一件は一葉の思い過ごしであったことが判明して、一葉は安心した。

寂聴さんは、続ける。


「この日記の条も考えてみればおかしい。自分が避けられたかもしれないという不安は、年末の借金の申し込みのこともあっただろうが、すべてを見せてしまった女の、男に対する不安が、異常なほどの被害意識をかきだてていたともとられよう。

一月中、日記では桃水に逢っていないことになっている。しかし、あそこまで高まった一葉の激情が、一カ月も逢わないでおさまるものだろうか。日記には二十一日だけが抜けているが、他はさりげない記事ばかりが羅列され、「無事」とだけ書いた日がつづいたりしている。

一月中に、少なくとも一葉は二回は桃水に逢っているのではないだろうか。」


つづく

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